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不確実性からの逃走 -碇シンジのイヤホン


電車の些細な光景

暇だしイヤホンをつけて、スマホでも触ろうかな。

電車内などでよく見る光景だ。しかし、この光景を何気なくぼーっと見ていたときに、シン・エヴァンゲリオン劇場版のあのシーンが思い浮かんだ。

主人公の碇シンジが一人っきりでイヤホンを耳につけ、うつむいているシーンが。

しかもこの描写、何回も碇シンジの聴く旧式のウォークマンが巻き戻されるシーンが描写される。

不確実性なんて大嫌い

人はなぜイヤホンをつけてスマホを触るのか?暇つぶしであることは間違いないが、暇つぶしのためにスマホを触るだけであれば、別にイヤホンをつける必要はないはずだ。

スマホを触る。これは、視覚と触覚をスマホに集中させている。これに聴覚(イヤホン)も加わるとどうなるだろうか?自らを外界から遮断していることにはならないだろうか?

目でどこの駅かを確かめる。電車が動いたかどうかは、触覚を通して、車内アナウンスを聞くには、聴覚を通して外界にアクセスする。

(車内で味覚と嗅覚を駆使することはまれだと思う。この2つの感覚器官を駆使したところで、私たちの電車内で知りたい情報をキャッチできるわけではないので、車内では、この2つの感覚器官は息をひそめているのではないか)。

私たちは、スマホを触ることで何をしているのだろうか?外界とのコミュニケーションをできる限り減らして、不確実性を減らそうとしているのでは、そう思った。

スマホの画面内では、通常思うように自分の手を動かしてSNSや動画、写真などを見ることができる。そこには、予定調和しかない。意外な写真がSNSで回ってくるとしても、自分に直接被害が及ぶことはそうそうない。

碇シンジのイヤホン

碇シンジの旧式ウォークマンに関しては、よく巻き戻されるシーンが描写される。これの意味が分からなかった。でも彼がいつもイヤホンをつけて自分の殻に閉じこもるのはどういう状況かを考えると、なんとなくその理由・意味が分かった気がする。

碇シンジは、なんども同じ音楽を繰り返し聞くことで、自らを確実性の海に溺れさせようとしているのではないか?

彼がいつもイヤホンをつけるのは、何か失敗したとき、自分の思い通りに事が進まなかったときだ。不確実性という現実に向き合うことが出来なくなったとき、彼はイヤホンをつけて、うつむき、自分という確実性の海の中に閉じこもろうとしている。

VUCAの時代とは言うが

翻って、電車内の私たちもおよそ碇シンジと同じことをしているのではないかと思う。何か想定外のことが自分の外で起こっても、あらゆる感覚器官を自分に振り向いてさえいれば、外界に巻き込まれない。

深層心理では、必要以上の外界との接触を嫌悪している、だからイヤホンをつけるという行為を私たちはしているのではと思う。

VUCAの時代とよく言われる。でも世界は最近VUCAの時代になったのだろうか?いや、昔から世界はVUCAなのだ。私たちの世界を知りうる情報量の範囲がはるかに拡大してしまい、私たちがこれまで全体をひとつのまとまりとして気遣うことのできた世界を、私たちが処理できなくなってしまったに過ぎない。

変わったのは世界の方ではない。私たちの方なのだ。

美醜

自分の殻に閉じこもると安心する(不安が少なくなる)。では、外界から自分以外の人間がいない場面を想像してみよう。そこには、自分以外とコミュニケーションをとることのできる存在はいない。そのうち、自分と外界の境界線がぼやけ、やがては自分のことを「私」と呼ぶ必要すらなくなる。私とは世界である。そんなことが言えてしまいそうな状況だ。

自分の内側に閉じこもると、他者への想像力が薄れる。すると、相手との共通の理解の地盤が失われ、自分の良いことが他人にとっても良いとは限らないという状況が増える。つまり、自分の美が醜になり、自分の醜が美になる状況が増えてくるということだ。

みんな違ってみんな良い。これは、他者への理解を示しているように見えて、全くの逆だと思う。だって、みんな違ってみんな良いというのは、理解できない存在として相手を理解しているに過ぎないからだ。そんなことを極論まで推し進めれば、互いの理解を深めないまま、相手を自分にとっての内側に取り込んでしまいかねない

相対性という福音は、いつのまにか私という絶対性が世界を飲み込むという、黙示録に取って代わられる。


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