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なぜ子どもは勉強しないといけないのか?

子どもに「なんで勉強しないといけないの?」と聞かれて、大人は納得する答えを与えられるだろうか。教師であっても、明確な答えを持っていない、持っていてもうまく子どもに伝えられない人は多いのではないかと思う。
しかし、この疑問に対する回答は極めて重要だ。そもそもこの質問をする子どもは「勉強をしたくない」「勉強が苦手」と思っていることが多く、回答の内容がこの先勉強を好む子どもに育つか、勉強を嫌う子どもに育つかの岐路になる可能性すらある。

子どもにとってこの先どれだけ勉強をするかは人生の大きな分かれ道だ

この重要な問いかけに対して、長らく日本では「より偏差値の高い学校に入り、より大きな会社に就職すれば、より幸せになれる」と考える風潮があった。そのモデルがやや崩れた現在では、「より偏差値の高い学校に入った方が、人生の選択肢が広がる」(某塾が掲げる理念)という修正版も見られる。たしかに確率で言えば、現在でもより偏差値の高い中学校・高校に入学し、より有名な大学に進学した方が、より大きな会社に就職できる可能性が高く、より高い給料を安定してもらえる可能性は高いだろう。

また、短期的な場面で考えてみても、生徒が勉強する理由は「定期テストで良い点数を取る」「良い内申点を取る」ことであり、勉強しない生徒に教師がかける言葉は「それじゃ赤点だぞ」「内申点取れないぞ」であることが多い。長期的にも短期的にも、勉強の結果としてより良い評価を受けることが勉強の目的となっている

しかし、結果を目的として勉強を促してきたことで生まれた弊害は大きい。
大学生が勉強しない
(多くの企業の採用試験では大学の成績は問われないため、大学に入学で きた時点で目的は達成し、勉強するモチベーションがなくなる)
大人が勉強しない
(勉強は強制的にやらされる嫌なものだと認識していている)
自分の好きなこと、やりたいことが分からない
(勉強をしているとその中で自分の興味があることを見いだせることがあるが、ただ結果を出すために勉強している時には好奇心が湧きづらい)

勉強は嫌なものと考えている人は多い

人々が勉強せず、好きなことを見つけられないのは社会にとっても個人の人生にとっても損失だ。イノベーションは起きず、生産性は上がらず、教養のない人が蔓延り、政治も合理的でない方向へ流されていく。今の日本の経済的な停滞の一因は教育にあるとも言われる。

現状の教育を変えるために、入試の仕組みを変えようとする動きがあり、主に大学入試で改革が検討されている。しかし入試の仕組みを変えたところで、予備校を始めとする教育産業がすぐに「新しい入試の攻略法」を提供し、本当に子どもに身に着けてほしい能力ではなく、いかに攻略法を身に着けたかのゲームになってしまう。入試改革に伴うカリキュラムの改編などで一部効果はあるかもしれないが、抜本的な解決にはならない。

また、学校で学ぶ内容を「教材中心」から「経験中心」に変えることで、子どもの勉強への関心を高めようという意見もある。しかし、その方法では身に着けておくべき内容の量に教育のスピードが追い付かない。子どもの関心次第で教育の格差も今以上に拡がってしまう。そもそも約100年前にデューイがこの方法に挑戦し、頓挫している。「経験中心」の教育を主張する人は、まずデューイの『学校と社会』を読んでいただきたい。

結論として私は、現状を変えられるのは教師しかいないと考えている。必要なのは以下の2つだ。
①教師が教科を教える際に、いかにその教科が面白いか、役に立つか伝える
②勉強しない生徒に対して、試験以外のモチベーションを与える

教師の力量が問われる

①について、教師は教える際に、ただ教科書の内容を生徒の頭にインプットさせるだけの作業になっていないだろうか。その教科の面白さを伝えるためには教師自身がその面白さを理解し、伝えたいという思いを持っていなければできない。はたして持っているだろうか。生徒によって関心の違いがあるため、すべての生徒にその思いが伝わらなくたっていい。しかしすべての教師がそのような思いで授業をしていれば、一教科くらいは生徒の心に刺さるのではなかろうか。

②について、試験のために生徒に勉強を強いるのは簡単である。しかしその安直な手段に頼りすぎてはいないだろうか。つまらない授業をしようが、生徒からの信頼が0だろうが、試験で脅せば生徒は勉強せざるを得ない。これもすべての生徒を試験以外の理由で動機付けすることは難しいだろう。しかし逆にすべての生徒を試験で動機付けすればいいと考えるならそれはどうなのか。

ただ、教師を一方的に責めるわけにはいかない。何はともあれ教師は忙しい。教材研究、進路指導、行事準備、保護者対応、事務作業、部活動、、授業に魂込めるほど教材研究に時間をとれないし、それが続けば徐々に与えられた最低限の役割をこなす機械のようにならざるを得ない。
できることは自動化・アウトソーシングして、教師の時間を解放する。その時間を使って準備をし、生徒を惹きつける最高の授業をする。それが唯一の希望ではないだろうか。

すべての教師が最高の授業をできなくても、できる教師が増えれば、救われる生徒も増えるだろう。私は何人かの最高の教師の授業を受けたおかげで、勉強が好きになり、人生を変えてもらったと感じている。

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