日本の就活の問題点(教育の観点から)

教育制度は無意識のうちに人間の考え方に影響を与えている。それが顕在化している1つの例が、教育から労働への移行時、すなわち就活だ。

歴史を振り返ると、近代社会における受験は主に「出世」が目的とされていた。そこには、受験でより高い学歴を獲得し、一流企業や官公庁に入って身を立てるという壮大な物語が想定されていた。

しかし1960年代以降、高校進学率、大学進学率が軒並み上昇した。

(高校進学率 1955: 51.5% →1965: 70.7% →1975: 91.9%、大学進学率 1955: 10.1% →1965: 17.0% →1975: 37.8%) 

高等教育がエリート型からマス型に移行した現在では、高卒や大卒といった地位がありふれたものになり、「出世」のための決定的な役割を果たさなくなった。総務省の調査では、「社会に出て成功するのに重要なものは?」という質問に対し、「学歴」と答えたのはたった12%だ。

それでは何故現在も「受験競争」が続いているのか。それは、中学・高校そして塾の進路指導が、「頭のいい学校に行けば将来の選択肢が広がる」という、近代に通用していたが現在は確証の無い論理を打ち立て、偏差値によって学校を総序列化し、相対的上位校を目指した競争に生徒たちを焚きつけているからだ。

多くの進路指導では、受験が近づくとその時の学力に見合った学校に志望を縮小させ(大抵は、頑張れば合格できそうなラインを第一志望とする)、その中で志望校合格に向けて競争を煽る。生徒はそこに疑問を感じることはなく、こうして「より上位のものを目指す」という姿勢が無意識に内面化される。

問題となるのは、この受験競争において「勝って」きた高学歴の大学生たちだ。彼らは序列化された中でより高みを目指すという思考に縛られている。加えて、今まで「勝って」優越感を感じてきた経験から、就活においても受験と同じく、「より人気で有名な企業を目指せばよい」と考えている。

仕事と学校教育は別物だ。仕事は自分が価値を生み出す側に立つものであり、自分が熱中できるもの、価値を生み出せそうなものを選ぶべきだ。

多くの大学生は、受験という学校教育システムの中で無意識のうちに根付いてしまった思考法に気づかず、就活が学校から労働への移行であり、これまでと同じ思考法で考えるべきでない事にも気づかず、盲目的に就活をしていく。

そしてどこかのタイミングで「自分がやりたいことなんてわからない」と嘆く。探そうとする努力もせずに。これまで学校教育で何もかも与えてもらい、「受験」という意思決定の場も、自らの立ち位置から相対的上位を目指した選択でしかないのだから、自分で調べて考える力がなくて当然だろう。

参照

竹内洋(2016)『日本のメリトクラシー[増補版]』東京大学出版会

1991年世界青年調査(総務省青少年対策本部)

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