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犬がほしい。

3連休初日に日野に住む先輩のうちへ遊びに行く。
東京に来てから、わたしが一方的にとても懐いている人である。

友達がすごく多くて、顔を出したらめちゃくちゃ喜ばれるんだろうなという場所をたくさん持っていて、ある時は本を作っていたり、写真を撮っていたり、イベントでラジオDJをしていたり、時々、花や野菜を売っていたり......と思えば、お友達のお店で、何年も前からそこにいたみたいに自然に店番をしていたりする。

いろんな人に紹介してくれる時に、「この子、東京と間違えてうっかり立川に来ちゃったのよ」と言われるのも実は気に入っている。
ちょっと間抜けで悲愴感がないし、そういう間抜けな人を敵視する人はなかなかいないから、わはは、そうなの?いらっしゃい〜と、わりとラクに受け入れてくれてもらえるのが心地良い。
最近ではうっかり多摩に来ちゃってよかったなとも思っている。

✳︎

子犬が家にやってきたよ、という話を先輩から聞いて、犬を見に行く。

温暖な愛媛で生まれてまだ冬を知らないというその子は犬にしては寒がりで、始めのうちは新しく来た人間に興味しんしん、においをかぎに来ていたけどひとしきり愛嬌を振りまいたあとは定位置のぬくぬく毛布に戻ってウトウトしていた。


お腹の部分には毛がなくて、ふにふにツルツルしていて気持ちいい。
しつこく撫で続けていると、本人(犬)としてはちょっと迷惑なのかもしれないが、もう好きにすれば......という感じで、チラッとこちらを見たあとずっと目をつむっていた。
この受け入れられた!!という感じにちょっと感動してしまった。

これが人間にはうまくできない。
急に人のお腹を撫でたりはもちろんしないけど、相手が、本当は何をどうしてほしいかが正確に推し量れないために、または自分に自信がないために、そのとき素直に相手にしてあげたいと思ったことを実行に移すことができない。

おじさんが女の子の頭を突然撫でたら嫌われるように、ヒトとヒトのあいだにはやってあげたいからといって踏み越えてはいけない壁がある。
なので、他人という枠組みに甘えて、基本的には一定の距離を取る。

まして人間はうそがつけるので、嫌だと思っていてもうれしいと言ったりするからとても怖い。
でも、もっともっと怖いのは、自分がやったことで、誰かからの感謝を期待してしまうことだ。
だからこそ、そういうことをまったく気にせず一方的な親切を相手に躊躇なく投げられる人が本当にただただ眩しい。

犬のお腹を撫でるように、自分がどう思われるかとか見返りだとかは関係なく、ただ自分が与えたいという気持ちだけでふるまえたら、境界を超えられたら、それはなんて素敵なことだろうか。
少々乱暴な愛情を誰かに与えること。
それを受け止めてもらえること。
自分の愛情に全信頼を寄せられること。

「あと何年自分が元気に世話できるか」を考えてあの子を飼ったと言っていたから、犬のお腹を撫でるというやすらぎの裏側で、自分以外の生きている者の面倒を見る、とひっそりと強く決心することが必要なのだ。

はしゃぐ犬を愛情たっぷりに叱っている様子を見ていたら、帰る頃にはすっかり犬が欲しくなってしまった。あれから犬を飼うためにはどうすればいいかずっと考えている。

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