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「自分本位」が人の本質

ポスター既視感あるな、、と思ったら多分ウェス・アンダーソン。
今年のアカデミー賞は大戦モノ多いなという印象だったので、その理由も考察すべく鑑賞。

ーネタバレありー

キャストについて
Sandra Hüller!!この1ヶ月で2回目(落下の解剖学)。主演作品2作がアカデミー賞なんてよくあることなんだろうか?
いかにも「ドイツ人」みたいな、背が高くがっしりとした体格で、すごい存在感があるというか、威圧感があるというか。キリッとした眼差しがかっこいいです。
「落下の解剖学」の時のドイツ語訛りの英語も好き。

カメラワークについて
カメラ自体はあまり動かず、対象物を真正面または真横から捉えるカットが多い。
登場人物のクロースアップもない。まるで窓から関心領域内の生活を、一傍観者として観察しているよう。
何事も他人事としてしか見れない、関心を持てない現代人が、自分と対象物の間に設けている「壁」を表現している?

「関心領域」について
ナチス親衛隊がアウシュビッツ強制収容所群を取り囲む40平方キロメートルの地域を表現するために使った言葉だそう。つまりナチス親衛隊にとってアウシュビッツは関心外=どうでもよいエリア。
確かに収容されたユダヤ人たちをLadung(荷物)と読んだり、効率的な焼却炉の設計を考えたりしているところから、ナチスにとってここは何の変哲もない、ただのゴミ処理場なのだろう。

この映画にはアウシュビッツ内部の風景は全く出てこない。淡々と関心領域内での長閑な生活が丁寧に描写されている。
関心領域内は時間がゆっくり流れる。音がなければヨーロッパの田舎に住む金持ちの日常。川に遊びに行ったり、兄弟で戯れたり、どでかい庭でガーデニングをしていたり、家政婦さんたちがお茶をしていたり、、、。
映画をぼんやりと見ているだけでは、この家族のすぐ真横で大量虐殺が行われているとは到底思えない。私も初めは、耳を澄ますと時折聞こえる銃声や轟音、叫び声、庭とアウシュビッツを隔てる壁に違和感を感じていたのものの、映画を見ているうちにその感覚が麻痺してくるのがわかった。
この感覚麻痺の最たるはヘートヴィヒだ。彼女は自分の子供たちを、この関心領域で育てることに固執している。普通に考えれば、人を焼いた煙が立ち上る煙突を真横に、銃声をBGMに子育てなんて不健全極まりない。なのにアウシュビッツと関心領域を隔てる壁は、その一才を遮断し、関心領域内での子育ての楽園に感じさせてしまう。

しかしこの生活の中でも、この異常性に気づいている人はいた。ヘートヴィヒを訪れて関心領域を訪ねたヘートヴィヒの母だ。彼女は関心領域内にあるヘドヴィッグの住まいをみて、「隣がアウシュビッツなんて信じられない、本当に幸せで完璧な人生」的なことを行っていたが。ある日忽然と消えてしまう。
私はヘートヴィヒ母が、豪華な住まい、贅沢な食事、大きな庭の横で行われている虐殺に気づいてしまい、その異常性に耐えられなくなったのではと考える。途中ヘートヴィヒ母が夜、窓から外の焼却炉の煙を眺めるシーンが挿入されていたが、気づいたとしたら、あの瞬間だろう。

またこの一応劣悪な状況に影響を受けているのが、ヘートヴィヒの娘の一人。夜ベッドにも入らず、物置部屋から遅くまで窓の外を眺めている。深夜、アウシュビッツに忍び込んでこっそり食べ物を隠している女の子を見ていたのかな?
私の理解力が足りず、実際娘がどんなことを感じていたのか、食べ物を隠している少女の正体などまでは、あまりよくわからなかった。

今年のアカデミー賞について
「オッペンハイマー」「関心領域」「ゴジラ−1.0」と、第二次世界大戦からみの作品が多かった。昨今世界各地で勃発している戦争が影響しているのは言わずもがなであろう。
しかし、これらはただの反戦映画ではない。なぜなら少なくとも「オッペンハイマー」や「関心領域」は加害者の卑劣さを描いているのでも、戦争の残虐さを描いているのでもなく、「戦争の傍観者(被害者ではない)」という特殊状況に置かれた人々の本質を抉り出した作品だからだ。

2作品に共通して描かれた人の本質に、「自分本位さ」が挙げられると考える。
オッペンハイマーにとって、一番大事だったのは研究の成功、物理学の新境地。
ヘートヴィヒたちにとって、一番大事だったのは自分たちの平穏。
「自分本位さ」は現代の非戦闘地域の人々にも見られる。同じ星に住む人に今どんなことが起きているのか、想いを馳せることはあるが、心を痛める人はそのごく数割。自分が幸せなら他は関係ない、という自分本位さが邪魔をして、他者に向けられた暴力に向き合えない。痛みを分け合おうという発想もできない。
このような人々に、各々の「自分本位さ」に気づせ、その醜さを自覚させることに、映画を制作した理由があったのではないだろうか。

ーーー

オッペンハイマーも関心領域も、実際の被害には全くと言っていいほど触れられていない。あくまで加害者の無自覚な残虐性に焦点を当てるための工夫なのだろう。しかし私には、醜さを悔恨し自らに贖罪を施そうとする、あくまで「自分」という関心領域から脱せていない堂々巡りのようにも見えた。


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