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境界知能に必要な支援と理解②

前回の続きで、AbemaPrimeから考えたことをつらつらと。今回は「多様性」を重点的に考えて見みた。


知らなければ想像もできない

「多様性」はよく耳にする言葉になったけれども、実感を全く持てない人や事柄がまだまだ多いように感じる。この言葉自体が攻撃・守備の武器として使われている場面も多い。

でも、それも仕方がないよなとも思う。

知らないなら仕方がない、と私自身の経験を通じて感じている。私は家庭環境や自身の生まれ持った性質故に、「周りの普通」が理解できないことが多かった。自身の感覚を理解されないことが多かった。

例えば金属のスプーンと陶器のお皿がこすれ合う音がめちゃくちゃ苦手だとか。例えば花を見ると異常に恐怖を感じるとか。それって知らなきゃ想像もしないだろうし、気がつかない。

番組の終わりがけ、司会の仁科さんの質問に対し、カンニング竹山さんと佐々木俊尚さんが責め立てる場面があった。どうして「責めて」しまうんだろうな。冷静に「差別にもとれる考え方になってしまっているから、その考え方は避けたほうがいいかも」と言ってくれたら、声を荒げている場面が苦手な私はうれしいな。

仁科さんは「境界知能」のくくりをよくも悪くも「自分とは異なる人」と捉えている感覚が強かったんじゃないかなぁ。「知らないと想像できない」がまさにこういうことだと思う。人と対峙するときに「自分の普通と相手の普通は違う」という前提で一歩引いて考える癖がないと、「自分(たち)と違うから特別な対処をしないと」という発想になるのも仕方がないと思う。

どう思っての発言だったか知る術もないし、むしろ台本にあったことかもしれないし、憶測の域を出ないけれど。

「多様性」が馴染みにくい日本文化

今回の問題を考えているうちに、「海外では障害やこういった境界知能についてどう捉えているんだろう」と疑問になって軽く調べてみたところ、海外での知的障害児支援のYouTubeを見つけた。

飛ばし飛ばしでしか見ることができていないのだけれど、「生活のなかで異なる人種や言語・文化に触れることが日本よりも多い」というところが印象に残った。

「多様性」が馴染みにくいのは、日本が島国だからなのかなぁと考える。基本的には単一言語の単一民族国家。方言や「沖縄っぽい顔つき」「東北っぽい肌の色」となんとなくの違いはあるけれど。間や空気、共通認識、常識を大事にする文化であることも要因かもしれない。

実際私が子どもの頃は周りに外国人どころかハーフもいなくて、日本人以外の関わりといえば、ごくたまにやってくるALTの先生くらいだった。金色の髪や白い肌に、なんとなくあこがれを抱いていた気がする。

私たちは「異なること」に慣れていないのかもしれない。

武器にされている「多様性」

「多様性」という単語はここ数年急激に目にするようになった。アメリカからの流れが大いに影響しているみたいだけれど、日本ではこの単語が武器にされていることが多いような気がしてならない。攻撃としても、守備としても。

私も「HSP」という単語を使って、相手に理解してもらうことを押し付けていた時期があった。単語を使えば理解してもらいやすいのはあるけれど、でも一口に「HSP」と言っても実際には感じ方は人それぞれで、「私はこれが好きでこれが苦手なの」とひとつひとつ言葉にしていくしかないんだなと悟った。そもそも感受性の強さや感覚の過敏さは、私の一面でしかない。

自分でも当事者になったり、当事者の声を聴いてみたりしているなかで、「多様性を認めて」と叫ぶのではなくて、「多様性をみんなで知っていかない?」と言いたいなと私は思う。

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