見出し画像

やるからできるようになる

そりゃ当たり前なんだけどね。
今日の日記。

2年ほど前から続けているオンライン自主勉強会。
「クンサンラマの教え」という仏教の論書を読んでいる。私が予習をして、チベット語堪能な友人のAさんにわからないところを教えてもらうスタイル。

今日はなんだか仕事で疲れていて、夕方に「今日は仕事の都合で勉強会なしでお願い」とAさんに連絡した。

「仏教は動機が大事だ」と論書で説かれている通り、私は自分の心が仏教とチベット語に向いていない時は、無理やり勉強しない。そういう時は言葉が思い浮かばず、勉強会がスムーズに進まなないので良い結果を生まないと、これまでの経験上でわかっているから。

でもその後で、「やっぱり今日もチベット語をやろう。自分のために、今日もやっておこう」という気持ちになったので、Aさんに連絡。勉強会をお願いした。

そして、いつも通り私が音読して、予習からわかる範囲で訳をしていると、

「さおりさん! 今の訳、本当にすごかったですよ!感動しました!」とAさん。

え……?? 何がすごいのかわからなかったのでAさんに聞くと、

「この部分のチベット語の意味だけにとらわれずに、全体の文脈から意味を思い浮かべて、さらにここの文章の前後関係を考慮した上に言葉を補っていましたよね! 本当にすごいです!」と。

うわぁほんとだ。無意識にやっていた。

もちろん、Aさんが丁寧に優しく教えてくれているから、できるようになっている。感謝しかない。

そんなAさんはとても謙虚な人なので、いつも私が「Aさんのおかげでこんなに読めるようになってるよ。ありがとう!」と言うと、Aさんは「私は何もやっていないですよ。さおりさんが訳しているんです」と言ってくれる。

自分の知識を惜しみなく私に注いでくれるAさんと、地道に予習してチベット語に向き合い続ける私。
この絶妙なバランスと相性で、2年以上も勉強会が続いている。

自分一人で勉強していると、自分が今どれくらいの難易度のものをやっているのか、わからなくなる時がある。
でも、こうして客観的に自分を見つめてくれる人がいると、自分の現在地を知ることができる。

たしかに、2年前と比べて、チベット語を読むことに慣れた。予習にかかる時間は半分以下になった。仏教の教えに触れることで心穏やかに過ごせることが増えた。わからない単語はありつつも、まとまった量のチベット語文章の大まかな意味を捉えられるようになった。基本的な仏教用語に慣れた。チベット語独特の表現に慣れ、日本語を補うことに慣れた。

やってきてよかったなあ。
今日は何か大きなものを受け取る気がして、勉強会をお願いしてよかった。

続けていると辛い時もあるけど、やっぱりやるからできるようになる。
成長を体感して嬉しい日だった。

お読みいただきありがとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?