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センスのある人になりたい

日常生活を送っていると、センスが欲しいなあと思う瞬間が意外と多くて。
咄嗟に出てくる言葉に、光る物を感じさせたいという自意識は日々肥大し。
周りの人のセンスある発言を、さりげなくiPhoneにメモして、使えそうなシチュエーションを探すなど、慎ましい努力をしている。

時と場合とセンス

例えば夕飯の準備中、リビングの蛍光灯のスイッチにうっかり触れてしまい、部屋が真っ暗になると、妻はすかさず言うのだ。

「お、サプライズ?」

嫉妬する。
ただの日常の、なんてことないアクシデントを、瞬時におしゃれなバースデイサプライズとつなげるその思考回路が、たまらなく羨ましい。

後日、学生時代の友人達と食事をする機会があった。
注文した料理を待つ間、急に店舗の照明が消えた。脳内で僕は叫んだ。今だ!

「Hapー」

『いや待てと。店内には自分たち以外にも客がいる。そのまま歌い続けることで、本当にバースデイサプライズと勘違いされてしまわないだろうか。実際はただのアクシデントであったと気づかれた際、「え、どの席?」「誰、誰?」と衆人の関心を浴びるリスク、無理無理。耐えられない。羞恥で死ぬ。(この間誇張抜きで0.1秒)』

「ーpy…んんっ」

ハッピー咳払い。幸せ咳払い。

友人達の視線が、頭上の照明から僕に向かうのを感じる。
ところがどっこい。既に僕はポケモンGOを開いて下を向いている。この辺ジムないなぁ、などと呟いてる。
徐々に漂う『さっきの何?』感は、ひとしきり僕の周りで渦巻いた後に霧散した。ほとんど同時に届いたカツカレーの香りが、その名残すら消し去ってくれた。

うまいこといかない。一瞬の一言にセンスを輝かせるには、TPOとの親和性も重要なのか。学ぶ。学ぶのだが、活かせるのはいつになるのだろう。

愛とセンス

1月に生まれた息子には、四季折々をたくさん感じさせたい。
3月末、誕生して3ヶ月足らずの息子を連れ、ベビーカーや抱っこ紐を駆使しながら、桜を見に出掛けることにした。

通勤中、車1台分の小さな橋から見ることができる、川沿いの桜がとにかく綺麗で。普段はそこで停まることはできないので、ここぞとばかり訪ねてみることにした。

朝の通勤時とは違い、午後、日が1番高い時刻に通るのは初めてだった。
それなりに人が行き交い、各々が写真を撮ったり、ぼんやり桜を眺めたりしている。

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ささやかな喧騒を湛える、その隠れた名所において、一際大きい会話が聞こえてきたので、ついそちらに目を向けてしまった。

5歳くらいの男の子と、その母親らしきミドルエイジの女性が並んでポーズを取っている。先程から聞こえる、大きな話し声は、その女性のものだった。

「もっと上、上! いや、今度は下げて〜!」

カメラを持った高齢の女性に指示を出していた。男の子にとっての祖母であり、指示を出している女性にとっては母であるようで。

「母さん、下げて、下げて! 〜っ、下すぎる!」

なんて事のない光景ではあるのだが、不思議と惹きつけられてしまう理由は、彼女の声色にあった。
苛立ちは、確かに含んでいる。『何度言っても伝わない、あぁ、もう』みたいな、痒いところに丁度手が届かないような、引っかかった小骨がなかなか取れないような。

しかし、その苛立ちを隠そうともせず、それよりも、一言一言にこめられた感情の割合を占めていたのは、明らかにその状況を楽しんでいる様子だった。

ほんと、母さんは空と地面を撮らせたら日本一だね。

カラカラと笑いながら、そう言い放った。
僕はズガンと、頭の天辺から土踏まずまで、そのセンスに撃ち抜かれたような感覚に陥った。

上へ下へ、スマートフォンを動かしている母親に向かって、暖かい苛立ちをぶつけまくっていたミドルエイジの女性。
とどめの一言で、延々とポーズを取らされている自分たちを“撮れない”事実を貶すのではなく、代わりに何枚も“撮れている”であろう、空と地面を肯定した。

きっと写真を撮ろうとするたびに、同じやりとりを繰り返しているんだ。何十回も、何百回も。その光景を見たくて、写真をお願いしている。

やっぱり今日もうまく撮れてないな。
何度やっても、ちょうどいいところでカメラを構えられないんだな。

いつもいつも、その光景が愛おしくてたまらないから、きっとたくさんの写真と共に、目に焼き付けている。

センスって、愛情なのかもしれない。

起き抜けにコーンポタージュを嚥下した時のような、ゆっくりとした暖かさを確かに感じた後。僕と、妻と、息子と3人で、iPhoneのインカメラを何度も構え直す。

先程の女性がそんな僕たちの様子を見て、息をするように声をかけてきた。

「撮りますよ〜!」

撮りましょうか? ではなく。ニコニコと。

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