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運転免許とハッピーエンド

「そういえば俺も、3校目で免許を取ったな…」
しみじみと思い出したのは、岸田女史の一連のツイートを見てからだ。

ハッシュタグキナリ杯をしれっと掲げた上で、この書き出しはいささか卑怯にも思えるが、思い出してしまったものは致し方ない。

さらに言うと、「そろそろ何か文章を書きたいな…」と湯葉くらいの薄い感情が芽生えていたことも、Logicoolのキーボードを装着して、さも「私はお手軽PCですよ」という顔をしているiPadに向かうきっかけとなった。

職員室以外で書類を作るのに重宝しています。ありがとうお手軽PCことiPadよ。ロジパッドと名付けよう。

四季と天候

およそ11年前、指定校推薦などという大層な名前のついた制度で、地元の大学に進学することとなった。

僕が通っていた高校は、秋頃から自動車免許を取りに行って良いことになっていたのだが、元々そんなに裕福な家庭ではない上に、自身の受験や3人の弟妹の部活などで何かと物入りな時期。

揚々と送迎バスに乗り込む学友たちを眺めながら、古い血液を代謝すると共に無料のジュースとお菓子を嗜むことのできる、素晴らしい施設、献血センターへ向かう日々を送っていた。

当時の僕にとって一番悔しいことは、免許を取りにいけない家庭環境ではなく、未成年は200mlしか血液を抜いてもらえないことと、血液を抜くには一定の期間を空けないといけないという献血のシステムであった。

かくして無免許で高校の卒業証書を受け取った僕は、そのおよそ1ヶ月後、自転車で30分かけて新しい血に酸素を送り続ける生活を始めた。

が、やはりさすがにきつい。車でも片道20分以上費やす、別のキャンパスでの講義もある。
対して僕の装備はヒラメ筋と大腿筋。決して縮むことない距離vsヒラメ・大腿連合軍。エンジンが欲しい。
多勢に無勢の負け戦を見るに見かねた両親は、ある晩こう言った。

「車の免許と原付の免許、どっちがいい?」

さながら軍師官兵衛の囁き。瞬間、脳内で目まぐるしく回転し始めた、双方のメリット・デメリット、取得までかかる期間、出してもらえる費用…。

「原付」

こうして僕は2択を間違えた。とにかく早くエンジンが欲しかった。

雨が降っても原付。雪が降っても原付。
摂氏30度を越えても原付。氷点下でも原付。
どこへ行くのにも原付。1時間かけて原付。2時間かけて原付。

シートに座っている僕の体は、常に外気とよろしくしている。
冬が終わって初夏に入るまでの束の間だけが、唯一の気持ちの良い期間。
温暖化の進む日本では、あまりにも短すぎる。

結論から言うと、その生活は就職しても続いた。期間にしておよそ9年間。
9年の時を経て、そして3校目の自動車学校で、ようやく普通免許(AT限定)を取得することと相成った。

人見知りと教習所

状況が変わったのは大学2年生の秋。なんと教習所に通うお金を捻出してもらえることになった。暁光。

それにしても回顧するにつれ、とんだ脛齧り野郎の甘々ちゃんだった自分に吐き気すら催す。大学生のバイト代はタバコと酒と後輩に飯を奢ってかっこつけるために消えていく。

もちろん僕は頭を下げ、教習所に通わせてもらうことにした。しかし、すぐに自分の浅薄さを悔いることとなる。

ミスその1。自動車学校と教習所の違いを知らなかった。
運転から座学からなんでも世話をしてくれるのが自動車学校。
対して、運転だけ教えてもらい、座学は自力で学習せねばならないのが教習所。さらに技能試験は免許センターで警察官を助手席に乗せて、とんでもないプレッシャーの中で行われる狭き門。

常日頃から最低限の出席数で単位をとっていたクソ大学生であった僕は、「自分でがんばる直向きさ」も「プレッシャーに打ち勝つ強い意思」も持ち合わせていなかった。

ミスその2。時期の選定。
秋といえば近隣の高校生がこぞって免許を取得する時期。2年前献血センターを根城にしていた僕は、そんな常識すら失念していた。

教習所の待合所は、部活動や就職活動から解放され、春から始まる新生活に向けてハンドルを握りに来ている学ランやブレザーがひしめいていた。
今のご時世では到底考えられない、3密状態。

それに何より、高校生たちは、仲良しの学友たちと楽しくおしゃべりをしているのだ。

これには参った。生来の人見知りである僕は、出来上がったコミュニティの中で異物と化した自分に強い羞恥を覚えるのだ。

始末が悪いことに、繁忙期の教習所では、待合所にいないと自分の教習の番をいとも容易く飛ばされてしまう。
老朽し、無駄にデカい音を立てて開く待合所の引き戸は、出入りをする度にマジョリティの視線を独り占めする。

集まった視線が僕への興味を失い、再び喧騒を取り戻すまでのコンマ数秒は体感で悠久。待合所の隅まで最小限の動きで自分の体を運び、赤子を抱き上げるより優しく椅子を引いて座れば、ただその空間で呼吸するだけの2歳年上の塊と化す。

そして忘れもしない事件が起きた。

待てども待てども、予約していたはずの自分の教習の番が来ない。担当の教官が待合所に顔を出すはず。一向に姿を見せない。

もはやどのくらいそこで肉塊に扮していたかも定かではないが、さすがにおかしいと思った僕は、出来る限りゆっくりと目立たないよう、待合所の外に出た。背中に集団心理が集結しているのを感じる。
後ろ手に騒音と共にドアを閉め、そこはかとない解放感を得たと同時に、担当の教官と目が合った。

「何してた! とっくに時間過ぎてるぞ! どうせ友達としゃべっとったんやろ!」

心が折れた。

咄嗟に脳内に溢れる、言葉にならない言葉の奔流。
違います。俺はずっとここで待ってました。自分の番が来るはずのその時を、あんたの救いの手を。友達なんてこの場にいない。俺は1人でここにいた。友達なんていない!

「ぁ…す、すみません…」

絞り出たのは、自分に非がないことだけは目の前の相手に伝わってくれと願いを込めた、情けない謝罪の言葉。黄ばんだ指に挟まれたタバコが、灰皿に吸い込まれると同時に、教官の眉間に刻まれた皺が消えるまでの時間が、また悠久だった。

次の日から、僕のなけなしの意欲も、足も、教習所に向くことはなかった。

不定休と自動車学校

教習所にかかったお金をドブに捨ててしまった僕は、そのおよそ2年半後、地元の企業に就職した。

教職を志して選んだ大学だったのだが、教育実習で見た現実が僕の脆弱な意志を叩き壊していた。プー太郎では表を歩けないほどのささやかなプライドは持ち合わせていたので、大学卒業直前に求人が残っていた企業の試験を受けた結果、身を寄せることになった。

実家から原付で7分の大型商業施設内での、販売の仕事。もはや車がなくても困ることはないと言える。

しかし、電車の路線が1本しかなく、それも隣県と隣県を繋ぐための用途しかないような田舎町。
そんな町で、齢23を迎える若者が車の1台も持っていないどころか、運転する資格すらない事実は、容易にコンプレックスとなり、心中で肥大していった。

「このままじゃだめだ…!」
ではなく、「このままだと、ちょっとまずいよなぁ…」みたいな、弱めの一念発起をした。

珍しく浪費を我慢し、1ヶ月分の給料のほぼ全てを仮免取得までの教習代に充てて、新たに自動車学校に通うことにした。

販売の仕事のため、週に2日ほど不定期に休日がある。その時に通えるだけ通うぞ。
自ら稼いだ決して少額でない金額を受付の綺麗なお姉さんに渡した時、僕は決意した。

はずだった。

不定休とは厄介なもので、今度は座学がうまいこと進まない。受けたい講義や早めに消化しなければならない講義が尽く出勤とかぶっている。
座学が進まないと、技能教習もある一定のところでストップしてしまう。

なるほど、あの頃憧れた自動車学校にも、こんなデメリットがあったとは。隣の芝生は青いものである。あまりにも青々と輝いているので、人は目を眩ますのだ。実際に眩いのは、自身の中で大きく膨らんだ都合の良い妄想なのに。

やる気が持続している内に取得しようと思っていたはずだったが、技能と座学の進度が噛み合わないと、自ずと足が遠のく。

それでもなんとか講義と休日が重なる日を血眼で探し出し、少ない希望休を駆使しつつ、約7ヶ月かけて仮免許を取得した。

しかし、時を同じくして転職が決まった。
僕は7ヶ月かけて勝ち取った半端者のレッテルだけを携えて退校し、生まれ育った土地を離れることになった。

新天地と「   」

様々な巡り合わせで、隣県の小学校に勤務することが決まった。
ほんの1ヶ月の実習で現実を見た気でいた自分に、本当にその水は合わないのか、もう一度確かめたいと燻っていた気持ちがどうしても拭えなかったからだ。

それからの日々は多忙を極めた。知らない土地、知らない人、初めての一人暮らし。
そして何より、3学期からの赴任ということで、とうに完成したコミュニティに異物として転がり込んでいく羞恥が襲う。

これまでの人生で培ってきた弱虫根性は粉々に砕かれ、深く根付いたひねくれ根性は、発露するタイミングを間違えれば徒に敵を増やすことを学んだ。
人と人が互いにとって正しく関わることは簡単なことではないし、がんばるべき時は人生に何度か必ずある。

前を向けない人に誰もが手を差し伸べるほどファンタジーな世界は現実にはあり得ないし、一度払ったその手が再び差し伸べられることは、永劫ない。

1年半ほどの長い間、僕は打ちのめされ続けた。仕事と酒のことだけを考え続ける日々。
仮免許の有効期限は半年。

その存在が脳裏によぎった時には、失効後さらに半年が経っていた。

スタートとゴール

原付はいいぞお。
細い道も通れるし、ちょっと休憩したい時に広い駐車場もいらない。短距離の移動でも車みたいに燃費が落ちることもない。アパートの駐車場を借りなくて良いから、お金がかからない。何より、小回りが利くから家庭訪問で道に迷っても、タイムロスはほとんどない。

教職には自動車よりも原動機付自転車がうってつけ!

などと嘯きながら。気づけば転住転職して3年半が経過していた。

確かにめちゃめちゃ助けられた。いくら雨風に吹かれようと、ファッションが乱れようと、原付がなければ、これまでの苦も楽もまちがいなくあり得なかった。
たくさんの思い出が詰まった大切な愛車であることに変わりはない。


だけど、そろそろ潮時だろう。雨天時の出勤や出張はかなり大変だし、バイパスを通ろうものなら出勤ラッシュに煽られる。

今度こそ普通免許を取ろう。

僕は成長していた。何にでもタイムリミットがあって、がんばらなければならない時がある。
仕事にも慣れ、放課後や休暇の使い方もわかってきた。チャンスは子どもが登校してこない夏休み。
7月に入校し、夏休みが終わる8月末に卒業する。綿密に計画を立て、行動に移した。

夏季休暇は自動車学校のために使い、その他の休みも取りまくる。事務作業は合間に消化する。

かつてないほど集中していた。約2ヶ月間、ほとんどのことを自動車学校のために調整した。全ては風雨を凌ぎ、汗をかかず、ヘルメットで頭髪がくしゃくしゃにならないために。それでなくとも、ただでさえ天然パーマが激しいのだ。


20歳の秋を思い出すと、人見知りを理由に、裕福ではない家庭で捻出してくれた大金を無駄にしてしまった自分がいた。その後悔が、今、なんとか頑張ろうというエネルギーに変換されているのであれば、きっと全てが無駄ではなかっただろう。と思いたい。思わなければやってられない。

企業に勤めた9ヶ月を思い出すと、それなりによくやっていたように思う。仕事の休みを使って、ままならないスケジュールをどうにかこうにかやりくりしつつ、牛歩のように仮免許まで漕ぎ着けた。担当の教官のおじいさん、優しかったな。受付のお姉さんは、未だに色気を振りまいているのだろうか。


3度目の正直とは、まさにこのような時を言うのだろうか。

滞りなく講義を消化し、仮免許試験も楽々パスした。別の学校と言えど、一度受かっているのだから当然だ。盛大なカンニングをしたようなもんである。

初めて路上に出た時は感動した。いつもは原付で汗をかきながら通っている道を、今確かに四輪で走っている。俄然燃えた。2学期からは、絶対車で通勤するんだ。

検定のコースも体に染み付いた。あとは、8月最後の日曜日に淀みなく検定コースを走り卒業し、翌日に有給を使って免許センターで試験に合格する。ただそれだけだ。

この予定は絶対に崩せない。この通りの未来を、僕は迎えなければならない。
そうでなければ、折れたままの心はきっと、一生消えない傷として残り続けるだろう。

ゴールはもうすぐ、そこだ。


二輪と四輪

僕は未だに面倒くさいことからは逃げることがある。
わざと空気を読まずにひねくれた発言をして、徒に敵を作ることも増えた。

誰かがしたり顔で差し伸べてきた手は、舐めてんじゃねえと牙をむいて振り払う。
学校を異動する度に、自らの異物感に羞恥し、マジョリティを鼻で笑うことでプライドを保つ矮小な人間性と死ぬまで付き合う予感もしている。

誰かと仲良くするためにエネルギーを使うくらいなら、敵が増えたほうが生きやすいと本気で思っている。


でも、車で通勤している。

タイヤは4つ付いているし、雨が降ろうが風が吹こうがお構いなしに外出できる。
真夏日には冷房の風を受けながら、凍える様な日にはブランケットを膝に掛けて、暖房を足の指先に当てながら移動している。
たくさん買い物しても、後部座席に山と積み上げることができる。
高速道路に乗って遠方の友人を訪ねることもある。

休日は、助手席に妻がいる。
一緒に行きたい場所に行って、その日の記憶を2人で確かめながら帰路に着く。

なんとまあ、幸せなことか。過去の挫折も過ちも、全て泡沫。
だけど、その無数の水泡が今の僕を形作っている。
飛び消えゆく記憶の飛沫が、キラキラと僕の轍を、そしてこれから行く道を彩るのだ。

2度あることは3度目はなかったし、失敗は成功の母だったと胸を張って言える。
でも、弱り目に祟り目なんてしょっちゅうで、爪を隠すほど能はない。

寄り道して、回り道して、たまにちょっと戻ることもあるけれど、最後にはたどり着けるのであれば、めでたし。そう思えるようにはなった。


最近の僕は、近所の買い物くらいなら、久々に原付で行きたいなぁと思っている。
青々とした二輪の思い出は、確かに僕の中で眩いくらいに膨らんでいる。


今回の記事について、言い訳をしています。

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