【紫陽花と太陽・中】第四話 バイト
ガヤガヤと騒がしい教室で、俺の前に座っているクラスメイトが唐突に話しかけてきた。
「五十嵐は、第一中学だったよな」
英語多読をやってみようと最近手を付け始めた、英語で書かれた短編小説から視線を上げ、俺は目の前の男子を見た。
「そうだ」
「ならさ、一組の霞崎さんって、知ってる?」
「知ってるよ」
「えぇ、マジか。彼女さ、中学の時も頭良かったのか?」
「むちゃくちゃ良かったよ」
「そうかぁー、やっぱりそうかぁー」
目の前の男子は、なぜそんなに……というほど、激しいリアクションでしゃべっている。
最近、あずさのことを話題にする奴らが増えた。というのも、理由はおそらくひとつしかない。入学後すぐに行われた抜き打ちの学力テストがあったからだろう。
俺とあずさが通う高校は市内で群を抜く難関進学校だ。その高校にやっとの思いで入学した生徒らに、合格したからといって安心しないでいただきたいとばかりに課されたのが、日々の課題に加えての抜き打ちテスト。試験範囲は中学の内容なのだが、試験勉強をする時間はないため完全なる実力が試される。そのテストで、あずさは全教科ほぼ満点で学年トップになったのだ。
テスト結果の順位は一位から五〇位までが表になって、各教室に貼り出された。教室ごとに、そのクラスの生徒にマーカーが引かれ、見やすいよう工夫までされている。それを見ても見なくても、ほぼ満点という脅威の点であずさの名は一躍有名になってしまった。
どんな生徒か一目見ようと教室の外から覗いた奴もいたらしい。見れば容姿端麗、頭がいいことを鼻にかけるふうでもなく控えめな性格で、一目惚れした奴もいたとの話だ。
……本人は、全く自覚がないけれども。
「彼氏とか、いんのかなー。知ってる?」
「知らねぇ。中学の時はいなかった」
俺は短編小説に再び目を落とす。そのうち、近くにいた他の男子も会話に加わってきた。正直、めんどくさい。同じ中学出身は俺以外にも何人かいるのだが、このクラスには残念ながら第一中の人は俺だけだ。入学してからというもの、あれこれ聞かれるのにはもう飽きてしまった。
「あ」
しばらく経った頃、ふと周りが急に静かになったので顔を上げた。
「剛」
教室の扉から、今話題に上がっていた当の本人……あずさが、俺に向かってまっすぐ歩いて来たのだ。しかも姓ではなく下の名前を呼んで。
「ちょっと話があるのだが……。どうした?」
俺が相当仏頂面になっていたんだろう、あずさが困惑した表情で尋ねた。
無言で廊下を指し、連れ立って教室から去る。後ろであずさのことを話してた奴らの視線がビシバシ俺の背中に刺さってきた。
「頼むから、学校では名前で呼ぶのはやめてくれ」
「どうした、急に」
「二人の時や遼介と一緒の時はいいけどよ……」
俺とあずさは廊下の突き当りのさらに端のところまでやってきた。
「お前、有名になってるの、知ってるか?」
「有名? 私が?」
「そうだよ。この間のテストで学年トップになったからだよ」
「テストなど、この先いくらでもあるだろう?」
「そうだけど……まぁいいや。……で、何だ? 話って」
「あぁ、それはだな……」
あずさが下を向き、それから両手を胸の当たりで握りしめ、少し興奮ぎみに言った。
「遼介が! バイトを始めたんだ!」
「へぇ、バイトできるようになったのか。どこで働いてんだ?」
「喫茶店だ」
「喫茶 紫陽花、か?」
「なんで知っている⁉︎」
俺の返答にあずさが驚愕した。
「え、適当に言っただけだが。前に遼介とその店に行ったんだよ」
「遼介と? 一緒に行ったのか⁉︎」
「え……そうだよ」
ん? と俺は頭をめぐらした。確かその日、奴は学校をさぼってたんだった。うまく言っておかないと後々面倒かもしれないな。しかしあずさは俺の心配とは全然別のことに衝撃を受けていた。
「さ、誘われたのか……?」
「え、そうだよ。行きたいとこがあるからって」
「……」
あずさが見るからに、しゅん……と項垂れた。
「お前は行ったことないのか?」
「……ない」
ははーん、これはあれか。本当は遼介と一緒に行きたかったのか。
「お前から誘えばいいじゃねえか」
「遼介は、忙しい」
「まぁ、学校とバイトの両立は大変か。飯とかも今までみたいに作ってるんだろ?」
「朝は一緒に作っている。夜は、バイトがある日は私が作ることにしている」
「ふーん、まぁお前が行きたいって言えば、遼介なら連れて行ってくれるだろ」
「遼介は、疲れている」
「どんくらい」
「バイトがある日は、布団に入って、三分で寝ている」
「早っ‼︎」
「布団に入る前に、リビングのソファで寝落ちしている時もある」
それは相当疲れていると見ていいだろう。というか、俺は姉貴たちの許可がよくおりたもんだと思った。四月に入学して、すぐに親父さんが亡くなって忌引して、それから一人旅もしたと言っていた。バイトを始めるほど学校に慣れていないはずだ。勉強も……実のところどうなんだろうか。この前サボってたし。
「勉強、赤点取らなきゃいいけどな」
俺が言うと、あずさも大きく頷いた。
「学業優先で、という条件付きでバイトをしている。だから次のテストがとても大事なんだ」
「お前は、遼介がバイトしましたー、って言うために俺を呼んだのか?」
「そうだ」
俺はため息をついた。わざわざ別のクラスに堂々と入って来てまでするようなことだろうか。
「メールすればいいじゃんか」
「メール……? 手紙のことか? 下駄箱にでも入れておくのか?」
それじゃ恋文になってしまうだろ。
「スマホだよ。持ってねぇの?」
「……さくらと日向が持っている機械のことか?」
「いつも一緒にいる女子のこと言ってんのか? まぁだいたいは高校生になったら買ってもらう奴が多いな」
「そうなのか」
「持ってねぇんだな。なら仕方ないな」
「あまり、学校で話しかけないほうが、いいのか?」
「んー……、まぁお前は有名だから、話しかけられたら目立つよな。別にいいけどよ」
「遼介と剛が別の高校になってしまったから、近況が分からないかもしれないと思って、それで報告をしようとしたんだ」
「そりゃどーも」
「でも……喫茶店、一緒に行ったんだもんな……」
再びあずさが萎れてしまった。
「だぁら、デートに誘ってほしいって、言えばいいじゃねぇか」
「でっ……」
「デートって知らねぇか。えぇと、二人きりでだな……」
「知っている‼︎」
あずさが顔を真っ赤にして叫んだ! なんだ、いつも一緒の女子たちに教えてもらったんだな。どうやらさくらという女子が彼氏持ちらしい。
「そそそ、そんな、デデ、デートなどというのは……そんなこと、言えない……」
あずさが顔を茹でダコのようにして口ごもる。分かりやすい奴だと思った。
「と、とにかくだ! 遼介は椿ちゃんのこととかでも忙しいから、もし困ったことがあれば、その……相談に乗ってあげてほしい……」
「そりゃ乗るよ。相談してくれればだけどな。……ん? 椿のことって?」
「えぇと、この前、椿ちゃんの授業参観があったんだ」
「あー……、小学生になったのか。ランドセルがどうのって言ってたもんな、確か」
「そうだ。椿ちゃんの参観は、五月中旬だったから、親の代わりに遼介が行ったんだ」
「……」
「もうおじさんも他界していたからな」
「そうだな」
「たまたまバイトではない日だったから何事もなく参加できたんだ。高校は早退したみたいだけどな。……でも、参観中に椿ちゃんがクラスメイトの男の子に、どうして母親が来ないのかって聞かれたらしくて」
「うん」
「母親はいないからと答えたら、その男の子は、じゃあ父親が来るはずだと言って、椿ちゃんは、父親もいないからと答えて……それで、泣き出してしまったと言っていた」
「……」
「授業は中断して、楽しい参観日にはならなくて、椿ちゃんを落ち着かせて、それで疲れて帰ってきた」
遼介がそんなことまでしているとは知らなかった。参観のことは前会った時は話題にも出なかった。親がいないのは遼介も椿も同じだが、奴は親代わりとして骨身を惜しまず椿に寄り添っている。
あずさはそれを誰よりも、俺よりも、知っている。
「俺も、もし相談されれば何かするよ。……でも、遼介はあまり人に頼まないようになっちまったからな。そこはあずさがうまくフォローしてくれると助かるんだが」
「努力はしている」
「そうだよな。そうだろうな。だからデートしてくれって、言えないんだもんな」
「そういう話はしていない!」
「はいはい」
こうやって、遼介がいないところで遼介のことを二人で心配している。そういえば俺は、前に遼介からあずさのことを見守ってほしいと言われていた。あずさからは、相談に乗ってやってほしいと言われた。
一体何だってこいつらはお互い心配し合って、俺にいろいろ頼み事をしてくるんだろう。
ふっと、ため息のはずが苦笑いになって口からこぼれ出た。
面白いくらいに、この二人は考えが似ている。
俺はあずさと別れ、面白がってあれこれ問いただされるであろう自分の教室へ、のっそりと戻って行った。
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