【紫陽花と太陽・中】第七話 賽は投げられた[3]
◇
私は部屋にわずかに入り込んだ日差しで、今が朝なのだと分かった。
しばらくぼーっとして、身体中が痛いのと喉がヒューヒューと音を立てている理由が思い当たらず、二度三度瞬きをしてみた。
ゆっくりと隣を見た。布団は空っぽだった。
いや、いつも遼介は早く起きて朝食の準備をしているのだから空っぽなのはいい。問題はタオルケットも枕も何もかもが置いてないことだった。
一瞬で飛び起き辺りを見回した。
しばらくじっとして耳を澄ませば、階下で包丁の音が聞こえる。トントントン、トントントン……。いつもと同じ、安心する音。
そろりと両の手を見やった。手首には赤黒いあざがあった。腕を近づけて匂いを嗅いだ。いつもこの家で使っているセッケンの匂いがした。
パジャマのまま静かに階段を下りた。台所は階段のすぐそばにある。遼介の家の台所はカウンター付きのL字キッチンと呼ばれる構造をしている。入り口から台所を見ると、遼介がちょうど奥のガスコンロに立って、廊下から(そして私から)背を向けて料理をしているところだった。
音を立てないようにそっと遼介の後ろ姿を眺めた。エプロンは中学生の頃に着ていたものと同じだが、身長がものすごく大きくなり、背中からでもがっしりとした体つきになっているのが分かる。
居候としてこの家に来てからもう三年以上経つ。その間に私は遼介と一緒にここに立ち、調理しやすい配置に道具を整理したり、冷蔵庫を一度買い替えたり、食器棚の中身を見直したりしてきた。
昨夜の出来事を思い出す。
台所の遼介から目を逸らし、階段の中ほどまで上がって見られないように座り込んだ。
昨日遼介にシャワーをと腕を取られそうになった時。私は拒絶の言葉を吐いた。その瞬間、彼の顔がくしゃりと歪んだ気がした。
でも……私は反芻する。拒絶は本心だったと思う。ただ、きちんと理由を述べることができず、遼介を傷つけてしまったことに激しい後悔を覚えた。
どうして触ってほしくなかったのか。理由は汚れていたからだ。
きっと遼介は、自分が男だから私が怖がったのだと思っているはずだ。
それは違う。遼介は悪くない。私は自分が汚れているから触られたくなかったのだ。
病院の、産婦人科の内診室で下半身の洗浄をされた時、激痛が走った。あまりの痛さに叫び、処置中に痛すぎて嘔吐してしまった。気が付くと意識を失っていて、私の吐瀉物が両腕にかかってしまっていた。看護師さんが大きめの洗浄綿で拭いてくれたけれど匂いが鼻について仕方なかった。
診察室で医師から処置の内容と今後のことを報告されている間、私はずっと後ろで見守っている遼介のことばかりが気になって、まともに医師の話を聞いてはいなかった。
レイプされた後、ほうほうの体でなんとか家に戻り怖くて痛くてどうしようもなく、本当は連絡したくなかったにも関わらず結局遼介の働くお店に電話をしてしまった。
一番見られたくない人に一番見せたくない有り様を晒してしまった。
遼介は心配性だ。昔、まだ別々に生活をしていた頃でさえ、私の小さな怪我で動揺した。兄に嫌なことを言われていないか痛いことをされていないか、毎日心配をされた。
今回もレイプした相手は兄だ。遼介にはまだ言っていない。
どのような経緯で私が被害に遭ったのか、どんなことが起こったのか、昨晩は遼介は一切聞いてこなかった。それがありがたかった。話せば止めどなく「その時」の出来事を思い出してしまいそうで怖かった。
私はずっと前から遼介のことが好きになっていた。とはいえ、この気持ちが愛情なのか恋心なのか憧れなのか、私はまだよく分かってはいないのだが。今まで私に好意の話を持ちかけた人間とは違う感情を、彼には感じていた。
本当は、遼介に触れてほしかった。
昔みたいに、背中をゆっくりとなでてもらいたかった。
穏やかな声で『だいじょうぶだよ』と言ってほしかった。
優しい瞳で私を見てほしかった。
……でも。
……私は、それを拒絶した。
『……触らないでッ!!!』
もっと言い方があったはずだ。遼介のせいじゃないけれど今は待ってほしいと言えば良かった。シャワーには自分で入れるから大丈夫だと言えば良かった。汚れているところを触ってほしくないから、またきれいになったら触ってほしいと言えば良かった。
全部、全部、全部、遅すぎる。
たった一言、言ってしまった時の遼介の顔が頭をよぎる。
悪いのは私であって、遼介は何も悪くない。
それを伝えるより前に遼介は私から離れていった。一緒に寝なかったのはそのせいだ。
顔をひざに乗せて石のように丸くなった。
昨日、友達のさくらと日向と一緒に買い物に出かけた帰り際。電車を降りて駅の改札口を出たところで兄と出くわした。今までさんざん出会わないように気を張っていたというのに、昨日に限って会ってしまった。
「引っ越そうと考えている」
開口一番に兄は言った。久しぶりだとも、挨拶もなしに。
昔のように髪を長くしてはおらず、顔つきは一緒だったが短髪で、相変わらずの色白で。とてつもない威圧感を感じていた頃と身長は変わらないはずだが(既に成人していたので)、遼介も同じくらいの背丈になって見慣れていたせいか、昔より気丈に対面できている自分に少し驚いた。
「そう睨むなよ。せっかく会ったのに」
兄は鷹揚に言って、肩をそびやかした。
すぐに帰るつもりだった。後をつけられでもしたら厄介なのでどこか近くの本屋にでも逃げ込もうかと色々思案していたが、兄のある言葉に心がざわついた。
「荷造りしてたら、母の遺品が出てきてね」
背を向けていた私はピクリと反応した。
「俺はもう捨ててしまうつもりだったが、今あずさと会ったからちょうどいいかと思って」
「どうだろう、一度見てからでも、不要なら捨てて行くから」
「小さな箱に入っていたくらいだから、数は少ない」
母の遺品。
母は言葉少ない人だったから、思い出だって極わずかだ。
簪や肌身離さず持っていたハンカチの一枚くらい、もしかしたら残っていたのかもしれない。
ほんの、ほんの耳かき一匙くらいの、見てみたいという欲を、私は持ってしまった。
匙の中身がこぼれ落ちた。天秤が、かくんと傾いた。
だから、悪いのは私だ。
欲してしまった、私が悪いのだ。
兄は平気で嘘を吐く。
遺品なんて何もない。
引っ越しだって、本当かどうか実際に確かめたわけじゃない。
淡々と表情ひとつ変えずに嘘を吐かれ、一時住んでいた部屋の奥がガランとしていたのに気が付いた時はもう……遅かった。
急いで逃げ出せばどうにかなる次元じゃなかった。力の差が圧倒的で為す術もなく、必死でもがいて抵抗したらスタンガンをぶち込まれた。何度も、背中に、何度も、気絶するほど。
意識を失い、気が付いたら全て終わっていた。
兄は欲を吐き出し満足したのか、シャワーの音がして、私が意識を取り戻した時部屋にはいなかった。朦朧としながら逃げ出した。
ずっとずっと遼介に会いたくて、ただそれだけを考えて走った。
ピピピ……。梨枝さんの目ざまし時計の音が鳴った。
ハッとして顔を上げ、私は音を立てないよう注意して部屋に戻った。
今日が春休みで良かった。遼介が働いていて良かった。
声を潜めて階下の様子を伺う。
遼介が仕事にでかける時間まで寝ているふりをして、それから下に行きたい。
頭がまだぼんやりとしている。
目を閉じてみると急激に睡魔が襲ってきて、再び私は寝入ってしまった。
また目覚め、時間を確認した。
家の中がひどく静かで、自分だけが取り残されている感覚になった。
トントンと足音を立ててリビングに向かった。
ダイニングテーブルからよく見える壁にいつものホワイトボードがあり、予定やメモが書かれていた。
『あずささんへ』
見慣れた遼介の文字と、名前を書かれて心臓が跳ね上がった。
『れいぞうこに、いちごとみかんをむいてあるので 食べてもいいですよ』
追記で『水分とってね』とも書かれていた。
私の目から涙が落ちた。とめどなく溢れ出てきた。
春休み中の椿ちゃんと産休中の桐華さんは外出していると書かれていた。
食べてもいいです、という言葉は、無理に食べなくてもいいよ、という気持ちだ。
泣きながら台所の冷蔵庫を開けた。
小さなお盆に果物皿とフォークがちょこんと乗っている。隣に、ゼリーとヨーグルトとプリンが並んでいて、全部に私の名前が書いた付箋が貼ってある。
私が熱を出したり具合が悪くなったりすると遼介が買ってくる「選べるデザートセット」だ。その時の気持ちで選べるように、私が遠慮なく食べられるように、きちんと名前も付けるところが本当に遼介らしいと思う。
こんなに優しい人を、私は傷つけた。
昨夜から何も摂っていないことに気が付き、ありがたく盆を手に取りダイニングテーブルについた。
丁寧に手を合わせていただきますの感謝の念を示し、大切にゆっくりと味わった。
いちごもみかんも(三月頃に出回っているおおぶりの柑橘類なので、薄皮まで丁寧に剥いてくれている)どちらも酸味を伴う果物だ。
喉に染み渡る。
……生きている。そう感じずにはいられないほど美味しい果物だった。
(つづく)
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