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【紫陽花と太陽・中】第七話 賽は投げられた[2]

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 家に一度電話で連絡をすれば良かったと思い出したときには、もうタクシーで帰路についている頃だった。椿つばきはどうしているだろう、ごはんの支度もしていない、桐華とうか姉は産婦人科(今日は検診の日だと言っていた)からとっくに帰ってきているだろうけど、具合は少し良くなったんだろうか……。
 玄関の鍵を開け、僕とあずささんは静かに家に入っていった。
 外から明かりが見えたので、家族がまだ起きていると分かった。
「あっ! あんたたち、どこ行ってたの⁉︎ こんな遅くまで‼︎」
 第一声、桐華姉が怒鳴ってきた。この声量だと具合はそんなに悪くないようだ。
「おかえりなさい。どうしたんだい? 皆心配していたんだよ」
 ひろまささんが柔らかな声とともに奥から出て来た。
 そして、あずささんの様子を見て、皆が絶句した。
「……」
 誰も、どうしたの? とは聞かない。大変なことがあったのだと察したのだろう。
「……話があるんだけど、今いいかな?」
 僕がしっかりしなければ。腹に力を込めて、努めて冷静に皆を見渡した。
 椿の姿がない。もう寝たのかな? とふと時計を見ると時間は九時を過ぎていた。おそらくもう夢の中に違いない。
「あずささん」
 一応家族に話すことを了承してほしくて、僕はあずささんをちらりと見やった。
「皆、心配してたから、何があったのか話したいんだけど、いいかな?」
 だいぶしばらく経って、あずささんがコクンと小さく頷いた。

「レイプ⁉︎」
 僕は先ほどの事態をなるべく簡単に、シンプルに説明した。
 あずささんから店に電話で連絡があったこと。
 救急車で産婦人科に二人で行ったこと。
 先生に適切に処置をしてもらったこと。
 あとは、時間が経つのを待つこと。

「緊急避妊薬を飲んだ。被害に遭ってから飲むまでが、早ければ早い方が効果が高いんだって。確実ではないとも言ってたけど」
「そうなの……」
「自己判断で隠して誰にも言わないより、きちんと処置した方が良いって」
「そうだったの……」
 そう、世の中にはアフターピルと呼ばれる緊急避妊薬なるものが存在するらしい。望まない妊娠を避けるための、特別な時にしか処方されない薬だ。ただし確率は百パーセントではない。避妊が成功しているかどうかは、その後しばらく経ち、普通の月経が始まるのを確認できて初めて分かる。
 人工中絶の資料ももらってきた。先生はあずささんに手渡そうとしたけれど彼女が微動だにしなかったので、結局僕が代理で受け取ってきた。他の資料と一緒に。

 今、姉のお腹には赤ちゃんがいる。ひろまささんとの大切な子供。これからゆっくりと時間をかけて、お腹の中で赤ちゃんが成長するのを幸せな気持ちで見守っていく。……はずだったのに。
 どうしてこんなことに……。
 片方は喜びに満ちた妊娠、片方は殴り捨ててしまいたい悲しい妊娠の可能性。
 しばらくぼーっとしていたのかもしれない。ハッと顔を上げると、桐華姉と梨枝りえ姉とひろまささんが、ため息をつきながら神妙な顔をして僕を見ていた。
「と、とにかく、今日はもうあずささんも疲れているから、寝ないとね」
「そうね」
「連絡、すれば良かったんだけど、どうしてもそこまで頭が回らなかった。……だから、ごめん。連絡できなくて。椿もごはん支度もほったらかしにしちゃった……」
「もういいわよ、心配はものすごくしたけどね」
「携帯電話、持っていればよかったわよね」
「そうね、こんなことになるならもっと早く持たせておくべきだったわ」
 携帯電話……そうか、つよしが持っているという機械があればいつでも家に連絡ができたのか。あぁ、でも病院にも公衆電話はあったはず。それを使うって気が付いていれば……。
 冷静になればあれこれした方が良かったことも思い出せる。やっぱり自分は冷静ではなかったんだろう。こんな時、父さんならきちんと対処できたんだろうな、そう思ってますます惨めな気持ちになりそうで、慌てて頭からかき消した。
 今は、あずささんにシャワーを浴びてもらって、すっきりして寝てもらわないと。
「あずささん、お話し終わったから、シャワー行こうか?」
 そういえば喉も乾いてお腹も空いていた。シャワーに入っている間に軽く何か食べられるものを作っておけば、少しは落ち着いてくれるかもしれない。
 深く考えずに、俯いたあずささんの手を取り、シャワーに連れて行こうとした。
「……触らないでッ‼︎」
 僕の手が固まった。
 姉さんたちの話し声も一瞬で静かになった。
 手を取ろうと伸ばした僕の手が、空を掴んだ。
「あずさちゃんっ……」
 梨枝姉が慌てて走り寄った。あずささんがハッと顔を上げて僕と目が合った。とたんに両目から大粒の涙がこぼれ落ち始めた。
「……ち、違う! これは違う‼︎ 遼介……私、違うんだ‼︎」
 ゆるゆると首を振るたびに、あずささんの目から涙が飛ぶ。
 一歩、僕はあずささんと距離を取った。
 目で梨枝姉に、あずささんにシャワーを促すようお願いする。梨枝姉がコクリと頷く。
 もう一歩、距離をとって後ずさった。
「り、遼介! ……私……‼︎」
「分かってる。あずささん、分かってるから……」
 わぁわぁと泣きじゃくりながら、あずささんと梨枝姉が洗面所に消えていった。
 リビングに沈黙が降りた。
 詰めていた息をそっと吐き出した。再び固く握っていた拳の力を抜いていく。
 今、自分は一体どんな顔をしているのだろう。
 本心じゃないと分かっていても、先ほどのたった三秒は僕の心の奥底を深く削った。
 拒絶された……。
 頭がぐらぐらする。まったくもって、この身長のせいだ。いつの間にか、どうしようもないくらい僕の身長は高くなり、今はあずささんを見下ろすようになってしまった。身体だってがっしりとして腕も太くなり、あの男のように筋肉ばかりついてしまう。
 僕が女だったら良かったのにと、何度思ったことか。
 視界が滲む。慌ててまばたきをして迷いを振り落とす。ガシガシと頭をかく。
「遼介」
 振り向くと、桐華姉が心配そうに僕を見ていた。
「何」
「今日も、あずさちゃんと一緒に寝てあげれそう?」
「……」
 迷った。
 僕は男だ。あずささんを恐怖に陥れた義兄や名前すら知らない男と同じだ。
 もう同じ部屋で一緒に暮らしていくのは、潮時なのかもな……。
「布団、取ってくる」
 強張った声でそう言い残し、僕は二階の自室……あずささんと中学二年生からずっと一緒に生活していた部屋……から自分のタオルケットと掛け布団と枕を取ってくるため、階段をそっと駆け上がった。


 何も食事を取らないまま一夜が過ぎた。
 翌日は快晴で、僕の憂鬱な気持ちも少し和らいだ。
 朝食の準備に取りかかる。炊きたてのごはんに人参とほうれん草のお味噌汁。付け合せに春菊のごま和え、切り干し大根の煮物(これは常備菜として作り置きしている)。
 なじみの生成りのエプロンを手早くつけ、腕まくりをして料理開始。黙々と出汁を鍋に入れて(出汁は、既製の出汁パックを水のボトルに入れて冷蔵庫で毎晩作っておいたやつがあるのだ)野菜を刻む。もう一つのコンロで春菊を茹でるための湯を沸かす。
 作業中は何も考えなくて済む。ただ調理工程に沿って手を動かせばいいだけだ。
 今が春休みの期間中で良かったと思った。あずささんは高校一年生の、椿は小学一年生の、それぞれ春休みだった。こんな状態で学校に通わなくても、ゆっくり家で休むことができるから。
 鍋で火の通りが遅い人参を先に茹で、別鍋で茹で上がった春菊を冷水に落とし、冷ました後で軽く絞り適切な長さに切っていった。ごま和えの、すりごまに調味料を合わせたものは既に準備してある。手を止め、人参の茹で時間にタイマーをかけた。
 今日は何ゴミの日だろうか? ゴミ収集の曜日を確認し、燃えるゴミであることを確認した。無表情のまま燃えるゴミ袋をゴミ箱からはずし、リビングや廊下のゴミを手早くまとめていった。流れるように昨夜あずささんが着ていた服——精液が乾いてゴワゴワとした——それも別の袋に入れて口を閉じ、さらに燃えるゴミの袋に投げ入れた。
 ゴミ袋を玄関に置き、ゴミ置き場に持って行ってもらうのは姉たちの誰かに任せようと心に決めて、台所まで立ち戻る。
 タイマーが鳴った。作業の続きに再度没頭する。
 ふと喉の渇きを覚え、グラスに水を入れて一気に飲み干す。昨晩、僕はあずささんと別に寝るためにリビングのソファを使った。普段と違う材質の寝具に、肩と腰が少し痛んだ。喉が乾いているのもリビングが少し乾燥しているせいだろう。
 父の顔を思い出す。少し逡巡して、僕は口角を上げた。
 遺言通り、いつも笑顔でいなくては。

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