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【紫陽花と太陽・中】プロローグ 入学式

 会場の中は大人たちだけなのにまるで学生のようにガヤガヤとざわついていた。ペタペタとスリッパの音をさせながら、僕は青いシートの上を歩き会場へと入って行った。
 近くを通り過ぎる大人たちは僕たちに気が付くと、一瞬物珍しい視線を送る。
 それはそうだろう。
 僕と、隣りにいるあずささんは、学生服を着ていたからだ。
 つい数日前に買ったばかりの学ランはごわごわとしてまだ慣れない。お祝いの席ではあるが、ワイシャツの首周りがパリッとしすぎて痛いので、僕は第一ボタンを開けて着ることにした。
 あずささんは濃紺のジャケットに青いストライプのリボンを胸につけ、グレーのプリーツスカートという姿をしていた。今日は少し肌寒かったので、ジャケットの中に淡いクリーム色のベストも着ていた。
「……たくさん、人がいるな」
 大人だらけの会場は騒然としていた。あまりの人数にあずささんは不安そうだ。
「保育園とは、生徒の数も違うからかもね」
「そうだな……」

 ここは、小学校の体育館。
 椿つばきの入学式を見るために、僕とあずささんは『保護者』として、ここに来た。

 今は入学式前なので、ここにいるのは生徒の両親たちだけだ。
 椿も含めた生徒(ぴっかぴかの一年生)は今頃教室で説明を受けているのだろう。
 僕は周りを見た。お父さん、お母さん。弟や妹を連れてきている親もいる。
 片親だけの家庭ももちろんあるだろうし、そういう家庭もだんだん増えているのかなと思ってはいたけれど。今こうして見ていると、両親揃っての入学式はすごく当たり前のように感じてしまう。
「あずささん、人混み、具合は大丈夫?」
 僕はそっとあずささんに聞いた。
「あ、あぁ……大丈夫だ」
「もし、少しでも具合が悪くなったら、遠慮しないで言ってね」
 あずささんは人混みが苦手だ。僕もあまり出かけないので得意ではないが、あずささんほど外出先で倒れたりはしない。
 ありがとう、とあずささんがそっと微笑む。
 ……かわいい。見慣れない制服姿も相まって、ものすごくかわいくて僕は胸がドキドキしてしまう。
 椿の入学式が始まるまであと十分。
 事前に入学教材一式を受け取り、席につく。
 前の席のご両親と妹が四苦八苦していた。妹が(たぶん二歳くらいだと思う)椅子に座らず、床をごろごろするのでご両親は困っていた。今日この日のためにおそらく用意したと思う、二歳用の小さなお花のワンピース。床のゴミが付いて、さっそく汚れてしまったようだ。
 やることがないのでワンピースの女の子を眺めていると、ふいに目が合った。子供は視線に鋭く反応する。
 自然と微笑んで手を振った。女の子もニコッと笑い返して「あー」と手を振った。
「かわいいな」
 あずささんが呟いた。ちらりと見ると、隣のあずささんはゆったりと微笑んでいた。

 椿は同年代と比べて背が低めの方だった。えんじ色のワンピースは本人の希望で(高かったので桐華とうか姉が目を白黒させていた)どうひいき目に見てもとてもよく似合っており、胸元のリボンがあずさお姉ちゃんと同じ! と喜んで着た椿は、他の子に混じって颯爽と歩いていた。
 母さんが死んだ後の椿が言葉を話せなくなった一時期や、他の小さかった頃の記憶を思い出し、涙が出そうになる。こんなところで泣く訳にはいかないと、膝においた手をギュッと握って拳を作った。
 もう見ることのできない母さんと、どうしてもここに来ることの叶わない父さんの分も、僕がしっかり見届けないと。
 泣いている場合じゃない。

 椿は、小学生になった。

 そして、僕とあずささんは、高校生になった。

 *  *  *

「椿ちゃん、とても格好よかった」
「えへへ、ほんとう⁉︎」
「あぁ、それと、とっても可愛かった」
「うふふふふふ」
 僕の前で、椿とあずささんが手を繋いで帰り道をゆっくり歩いている。
 あずささんに憧れている椿は、いろんなところで彼女の真似をしたがる。
 髪型、服装、歩き方。料理も小さいので踏み台に登りながら味噌などを溶いてくれるのだ。一生懸命な、僕の小さな妹。
 手に下げた学用品セットが意外に重い。
 僕が右手を左手に持ち替えて学用品セットが入っているビニール袋を持ち直すと、あずささんが(自分が持つ! と言ってきかなかったのだけど、丁重に断った)くるりと振り返り、ちょっと困った顔で僕に言った。
「今夜は、名前付けが待っているぞ」
 そうだった。このセットの中身全てに、名前を書く修行が待っているのだ。

 僕とあずささんは同じ年だ。本名は、霞崎かすみざきあずさ。中学二年生の時にこの街に引っ越してきて僕と同じクラスメイトだった彼女は、ある日複雑な経緯で僕の家にやってきた。それからはずっとずっと一緒だ。起きるときも寝るときも、買い物も家事も育児も、果ては病気の時も、ずっと一緒に生活をしている。
 実際、部屋すら同じで、シングルサイズのベッドを二つ並べて、それで寝ている。
 幼馴染の五十嵐剛いがらしつよしは僕たちが寝る時も一緒だと言うと、それは思春期の男女としてどうなのかと眉を潜めるが、こればかりは成り行きなのでどうしたらいいか僕も分からない。彼女が一緒の部屋のままで良いというのだから、そのままなだけだ。
 彼女には両親がもういない。中学一年生の時に事故で亡くしたからだ。茶道家の家元だったという彼女の父親はとても厳しい方だったらしく、幼い頃は彼女を男として家の後継ぎとなるよう育ててきたみたいだったが、性別はやっぱり変えられないということで、跡継ぎとして一人の男性を養子にした。血の繋がりはないが、戸籍上の彼女の兄。その男が霞崎鋭司かすみざきえいじ。僕が最後に見たその男は、色白で切れ長の目、鋭い目つきがかなり怖い印象の長身の大人の男性だった。
 ご両親の死後、彼女と義兄は二人暮らしを始めた。僕の家の近所のマンションの一室で。
 複雑な経緯となる「事件」は、そこで起こった。
 義兄が彼女を襲ったのだ。
 当時中学二年生だった僕は、襲うということが、痛いことをされたり怖い言葉で脅かされたりするものだと思っていた。実際彼女の首や手首には赤黒いあざができていたし、体中のあちこちにも打撲の跡があった(とあずささんが後で教えてくれた)ようだ。
 でも、今なら思う。義兄は彼女が逃げ出す直前、彼女の太腿を触りスカートをめくったと言う。彼女が着ていた服はところどころ破れていて、下着が……ブラジャーも見えていた。義兄はいやらしい劣情があったのではないかと思うのだ。
 あのまま彼女が逃げ出さなかったなら、今こうして一緒にいることは叶わない。
 彼女はあの日、逃げてきた。この街で唯一家の場所を知っている僕の家に、逃げてきた。裸足のまま、服もボロボロで。……恐ろしい出来事だったけど、逃げることができて本当に良かったと思う。
 たまたま帰省していた僕の父と警察官でもある剛のご両親が話し合い、彼女は僕と一緒に暮らすことになった。難しい手続きは、僕にはよく分からない。中学生の頃は何も分からなかった。生きていくためには、様々な書類、様々な手続きが必要だ。僕たちの高校入学と椿の入学準備でたくさんの書類作成があって、僕はようやく勉強の必要性を切に感じた。漢字が苦手、難しい文を読むのが苦手では、世の中で生きていくことはできないのだと。……学校関連の書類はあずささんと二人で相談しながら仕上げていった。僕たちの暮らす家は、僕とあずささん、妹の椿、そして姉二人と長女の旦那さんが一緒に暮らしている。僕の母さんはずっと昔に亡くなっている。
 一番上の姉の桐華、旦那さんのひろまささん、二番目の姉の梨枝りえ。大人三人はいつも働いていて、朝は早く夜は遅い。
 ここ最近は……僕の父の看病でさらに忙しくしていた。それで、椿の入学式には僕とあずささんが出席することになったのだ。

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