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もうジジの声は聞こえない


 気に入った本は、何度も読み返すたちだ。たとえば、村上春樹の「村上ラヂオ」は小学校5年生からの愛読書。工藤直子の「ともだちはうみのにおい」、谷崎潤一郎の「卍」なんかも、思い立ってふと読みたくなる本だ。
 同じ本を読み返すのだ。あらすじに、もう新鮮味はない。どんでん返しにわくわくすることもない。けれど不思議と読み返すたび、本は新しい気づきと、気もちを連れてくる。

 「村上ラヂオ」をn度目に読み返したとき、今まで何とも思わなかった文が目に留まった。

 決心なんて所詮、人生のエネルギーの無駄づかいでしかない。(中略)しかしそれとは逆に「べつに変わらなくてもいいや」と思っていると、不思議に人は変わっていくものだ。変な話だけどね。

 ちょうど、変わらなければ、という危機感のあった頃だった。けれど私はこの文章で、生き方や性格を急旋回することは、本当に難しいことなのだとしみじみ思った。そして、学校に行ったり、友達と話したり、ご飯を食べたりする、日々の営みを大事にすることにした。変わろうとすることに躍起になるよりも、そっちの方が重要なことに思えたから。

 大学で、日本文学の講義を取った。近現代の日本文学作品について、解釈や考察を学ぶ内容だった。その講義には、私が読んだことのあった作品が度々登場した。特に興味深かったのは、太宰治の「魚服記」の解釈だ。
 始めて「魚服記」を読んだのは、小学6年生だった。けれど当時の私には、よくわからなかったのだ。スワが衝動的に小屋を飛び出し、水に飛び込んで龍になるオチが、あまりにも難解すぎて。それで、もはや読んだことすら忘れてしまっていた。

 疼痛。からだがしびれるほど重かった。ついであのくさい呼吸を聞いた。
 「阿呆」
 スワは短く叫んだ。
 ものもわからず外へはしって出た。

 当時の私が理解に苦しんだのは、この部分だった。

 疼痛は、破瓜の痛みのことだった。セックスの意味すら知らない小学生がそれを理解できないのは、当たり前のことだ。
 ちゃんと解釈を学んで、もう一度「魚服記」を読み返した。数年ぶりに読み返すと、難解ながらこの小説がとても尊いものであるような気がした。それで、私は学んだ。解釈を知って、大人になって読み返して始めて、小説に血が通うこともあるのだと。

 テレビで毎年のように放映しているおかげで、大抵のジブリ作品は観たことがある。ほうきに乗って空を飛べるかな、とぴょんぴょんやっていた幼稚園児は、もう大学生になった。それでも「魔女の宅急便」は、何度観ても面白い。
 大人でも楽しめるアニメーション映画、それがジブリだ。けれど私は、もうあの頃のように、映画を楽しむことは出来ていないのかもしれない、と思うことがある。いろんな先生方のジブリ映画考察を聞いて、確かに知識は身に付いたけれど。純粋に作品を楽しむ心はもうない。魔法はとけてしまった。
 「ジジ、人間の言葉しゃべれなくなっちゃったの?」キキは言う。違うよ、キキ。貴女が大人になったから、声が聞こえなくなってしまったの。ひょっとしたら、私もあなたのように、何か大切なものの声を聞けなくなってしまったのかもしれないね。
 何度目かに「魔女の宅急便」を観たとき、ふとそんなことが頭をよぎった。



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