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7/2 【誰と一緒に居たいか、これだけ。】


京丹後にいた縁で、長野に来ている。
思えば2年前、初めてこのイベントに来た時はめちゃくちゃ緊張していて、というのも、自分には何も無いとか、ここにいる資格があるのかとか超ネガティブだったことを2年越しに長野の新鮮な空気を吸って思い出した。

あれから時間はすぐに過ぎ去って、当時は思いもしない。愛知に帰って自分で何かをやろうとしている現状を俯瞰して見てみると、この2年という長いようで短い時間は自分のターニングポイントとなり、きっかけを与えてくれた重要な時間になった気がする。


ではこの2年で何を主にやっていたかなーと、今サウナに入って休憩中に振り返ってみてるけれど、直感的にこの人と一緒にいたい!という人の近くに意識的、途中からは無意識的に居たことじゃないかなあと感じる。

いや、これめっちゃ大切で、結局のところ人と人の問題がストレスの根源になりがちなのは言うまでもないけれど、そのストレスを根絶するのは無理な話で。でも、自分が付いていきたいと思ってる人の近くにいると、もちろん考え方や生き方みたいなものが参考になるのと、単純に心が楽。人間関係は自分で選べると思ったし、四方八方に良い顔をするのは疲弊レベルが尋常じゃない。

そこに、自分だけの力では見えない世界が見えたり、その人たちを経由して新たな出会いがあったり、類は友を呼ぶとは良く言ったもので、さらに気が合う人たちと出会えたりで、居たい人の近くにいるのは恩恵も半端ないなあとこの2年が教えてくれたような気がしてる。

人間関係って本当に複雑で、そりゃ人はそれぞれ生まれも育ちも違うんで上手くいかないことが多いのは当たり前ではあるんだけど、この「居たい人の近くにいる」を意識してると、すごくスッキリしていい。この考えが中心にあるだけで、仕事の場面ではまあ社会的な関係性の構築も必要だから多少の我慢はあるけれど、プライベートはすごくラク。これでいいよね、ってなる。


これからは、「この人の近くにいたい」と思われるような存在になりたいなあと思いつつ、まだまだ居たい人の側に付いていってたくさんの世界を見たいとも思ってる。不器用だから、これくらいシンプルな取捨選択の方法があってもいい。なんかの記事で、居たくない人といるのは、時間と体力を奪ってくる死神と過ごしてるのと一緒と見て笑っちゃった。その通りだなって思う。

だから、一緒に居たい人を見つけて、近くに居てみて、なんか違ったら離れて、これの繰り返し。シンプルにいこう。考えすぎるな。でも、一人では何も出来ないから、頑固にはなるな。

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