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訪問診療日記#3 〜memento mori〜


こんばんは、Peisunです。

だいぶ今の仕事にも慣れてきました。

慣れてくると余裕も出てきて、見えてくるものの深みも増してくるものです。

どうせなら誰かに見てもらえたら嬉しいので、大して上手にまとめられるわけではないけれど、今日もここに。


写真は相変わらずランチです。

一目見て料理名がわかる方は同郷だと思います。


このテーマを深めたい

今日のは長いです。

今日のタイトルは、壮大なテーマなので、この記事だけで終われるはずもありません。

ただ、この日記(全然更新してないけど)を始めるときに思ったことの一つは、

死生観について自分なりの答えを見つけたい

です。

この業界にいると、特にこれまで僕が関わってきた領域については(眼科や皮膚科ではないので)、人の死に多く触れます。

年間で平均15人くらいとお別れしてると思います。(もっと多いお医者さんたくさんいると思います。)

正直なところ、慣れます

研修医の頃は、受け持ち患者さんが亡くなったら、隠れて泣いてました。

今はほとんどありません。

誤解しないでほしいのは、慣れて軽んじるわけではない、ということです。

ただ、やはり慣れると、余裕が出てくるので、今まで見えなかったことが見えてきます。

家族の様子を冷静に見ている自分がいたり、なんか気の利いたことでも言って、いい最期だったって思ってもらえないかな、と考えたり。


急性期病院なんかだと、亡くなる方って結構急転直下だったりするので、家族に受け止めてもらう、理解してもらうことに力を割く必要も出てくるので、尚更感傷に浸る間もないことが多いです。


死生観

脱線しましたが、慣れた結果、そして経験を積んだ結果

人の最期には色々ある

という、純度100%超ウルトラスーパーどストレートの当たり前な結論

改めてたどり着きました。

そして僕はこれを勝手に「死生観色々ある問題」と解釈し、思索の旅に出ることを決意したのです。

ただ、モヤモヤしたいだけです。本当に暇人ですね。


「人は死ぬ」


アタリマエのことばかり書いていて申し訳ありません。

でも現場で関わる方の多く、具体的には9割がたの「患者家族」なる民族

は、この命題を理解していません

僕たちが日本人だからかもしれませんが、(おそらく無宗教に近い思想だから)

死が遠いのです。


ご家族はもう助かりません、とお話しなければならないことが多々あります。

このとき、表現は違えど、答えのパターンで多いものの一つが、

本人がどうしたかったかわからないので、とりあえずできることは全部やってください、です。


おまかせします病

と名付けたいと思います。

「先生におまかせします」と言って、判断を放棄しています。

こんな無責任なことはないなと思います。

家族なのです。

人間なのです。

いつかは最期のときが来ます。

明日のご飯は相談するけど、最期にどうするか相談しておかないって、

想像力なさすぎです。明日のご飯なんて出たもの食べればいいだけです。(毒吐きすぎ)

いつ来るかわからない最期について、ある程度意思統一を図ることの方が、

冗談抜きで重要なことなのです。


でも、そうしない理由もわかります。

だって、嫌じゃないですか、晩御飯の話題が、「死ぬときの準備」とか。


それでも言って欲しい。(100%願望

「父はこれまでやりたいことをやって立派に生きました。

これ以上苦しむことや延命はしてほしくないので、自然な形で見送りたいです。」

とか。自分の家族のことは、自分たちで決めてほしいです。

こういう強さを期待してしまいます。

判断の主体になってほしいというより、準備していましたと胸を張って欲しいです


memento mori

有名な言葉です。

大切な言葉です。

ラテン語で、「死を忘れるな」という意味だそうです。

最近流行った100日後に死ぬワニなんか、まさにこれがテーマだと思いました。

おまかせします病を治す魔法だと思います。



幸福な最期 〜まずは問題提起まで〜


家族や自分の人生の最期です。

人任せでいいわけがないのです。

結論が例えば

「なんとか息してるだけでいいから、人工呼吸器につないで、心臓マッサージもして、昇圧剤も全力でつかって生きながらえさせてください」であってもいいです。

希望して、相談してくれるだけまだいいです。

医学的に、かつ人道的に受け入れがたい希望については、言葉を尽くしてお断りする準備が、こちらにはあります。

おまかせされようがされまいが、我々が持つ知識に基づいて、およそ最善と思われる判断をするのがお仕事なので、希望通りには必ずしも動きません

ただ、患者さんと家族さんにとって幸福な最期になればいい

とだけ思っています。


幸福な最期を定義するためには、生きることと死ぬことに対しての、「見方のバリエーション」を知る必要があると考えました。

これこそ、「死生観色々ある問題」です。


とりあえずの結論を以下に。


生きてきた人生や、準備された最期は人によって千差万別です。

志村けんさんのように、突然、不慮の死が訪れることもたくさんあります。

全ての疑問に個別に答えることは、できません。

だから、幸福な最期という、共有可能な軸を持って、

人生の最期を(例えば患者家族と医者で)相談しあえるような関係

世の中に広がったら。

不要な延命処置や、おまかせします病が減ってくれるんじゃないかという

淡い期待を持っています。



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