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26歳、漫画家で食べられなかった自分へ

こんにちは。ペガサス大学学長、ペガサスハイドです。こちらの動画は観て頂けましたでしょうか。これは僕がまだ26歳だった時の自分へぶつけたメッセージ動画です。漫画家としてまだ食べれなかった頃の僕に、今の僕から話しています。

こちらの動画のメッセージを、文章でも読んで頂けるようにしたので、文字で楽しみたい方はどうぞお楽しみ下さい! 

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ペガサスハイドです。今回は絵が下手くそでセンスがなく、ただの冴えない学生だった僕が、どうやって10代という若さで、講談社週刊ヤングマガジンという一流の雑誌社で受賞し、漫画家デビューできたかと言う、僕自身のストーリーを話そうと思います!

この動画は、過去の自分に対する手紙のつもりで撮っています。僕は、漫画を頑張っても頑張ってもダメだった、26歳の時の自分に伝えたい!

その前に皆さん今、こう思っていませんか? 話す前に何か言うことあるだろう ! そもそもお前誰だよ!  ホストかよ !  売れないお笑い芸人かよ! うんこした時は前からふくのかよ! うしろからふくのかよ! と、突っ込みどころ満載だと思います!

今日は僕の正体、ただの冴えない学生で、クラスの友達にも馴染めず、学校の勉強もマトモにせず、ただ絵を描くだけで1日がオワタ、クッソしょーもないガキだった僕が、10代で漫画賞を受賞し、20代後半には年収2000万円を突破する週刊連載漫画家になった方法。これらを話していこうと思います。

聞け !  26歳の時のオレ !

僕がどんな人物か早く知りたいという方は、概要欄にあるプロフィールのURLを見て下さい。twitternoteなんかも見てもらえると、僕のことがもっと身近に感じてもらえるかも知れません。

今日は僕の自己紹介と、漫画家になるまでの具体的なノウハウについて話していきますが、 実は Youtubeで一番あげてはいけない動画ランティング1位は、自己紹介動画なんですね。名前の知れた芸能人あであれば別ですが、ただの一般人が、どれだけチャンネルが役に立つかわからないのに、自己紹介動画を上げても皆さんは興味ないですよね 。ただ今回は例外です。

皆さんに漫画家デビューしてほしいからです!  いや、正しくは漫画でお金を稼げるようになってほしい!

「漫画でお金を稼ぐ」と表現をするのは、僕に取って大きなリスクがあります。何故なら「お金を稼ぐ」このワードを出しただけで、視聴者の皆さんは、思考停止して「怪しい」「だから全て悪」と、こんな風に思われるからです。

真摯に情報発信していても、僕自身の人間が信頼されなくなるからです。

だけど僕は自分が学生の時から思っていました。「漫画でお金が稼げるようになりたいなぁ」「漫画を描いて生きていけるようになればいいなぁ」「就職したくないなぁ」「そもそも学校の勉強自体、したくないなぁ」

学校の勉強が嫌いな学生でした。

僕は自分がコミュ症で、就職なんてできないタイプだと10代の頃から理解していました。だから「漫画家」という選択をして生きてきたのです。

何故この動画を撮っているかと言うと、僕が10代で漫画賞を受賞し、20代で漫画家になり、年収2000万円を突破した方法などを教えていくことで、皆さんにとって少しでもお役に立てるかと思って、人間性を疑われる覚悟で、 今こうしてカメラを回しています。

結論から言いますと、僕が1番YouTubeで伝えたいのは、「自分らしく、輝きながら生たいと思う人をアシストしたい」これなんです。これは僕が経営するペガサス大学のコンセプトでもあります。

「自分らしく輝きながら生きる」これは僕にとって「自分が描いた漫画が世間から認められ、漫画を描きながら生きていけること」でした。これが若い僕にとって「自分らしく輝きながら生きること」でした。

このHyde Channelを観ている人たちは、漫画を描いていたり、漫画家を目指す人が多いと思うんです。つまり、僕の若い頃、まだ26歳だった僕に近い人が多いと思って、この話をしています。

僕がどうして「漫画家」という職業を目指したのか、その理由を説明をさせて頂きます。

僕は幼少期、決して良い家庭環境では生まれませんでした。両親は子供の僕の前でケンカばかりしていました。お正月で集まった親戚一同の前で、僕の両親が取っ組み合いの夫婦ゲンカを始め、まだ幼稚園児だった僕は、うわーんと泣くことしかできませんでした。親戚みんなの前で大喧嘩をした両親のことが、子供ながらに恥ずかしくて、「こんな大人になるのイヤだ」と思ったことが、未だに忘れられません。

そんな家庭環境で育った僕がマトモな人間に育つはずもなく、小学生になっても、クラスでは浮いた存在でした。イラストや漫画ばっかり描いている僕は、クラスで変なヤツと言われ、同級生からは避けられるようになりました。僕が小学生の時は、休み時間はみんなとドッチボールをしないといけないという規則があり、絵を描くのが好きだった僕は、ドッチボールに参加しなかったことで学級会議にかけられ、次の日からは強制的に、やりたくもないドッチボールに参加させられました。

学級会議の様子は、僕にとっては公開処刑のような気持ちだったことが、今でも忘れられません。

クラスで浮いた存在だったのは、僕が中学生になっても高校生になっても変わりませんでした。僕はどこに行っても「みんなと一緒」という集団行動ができず、家庭の中でも学校の中でも一人ぼっちでした。

そんな僕ですから、大人になってから会社組織という場所にも馴染めるわけがない。なんとしても1人で生きていける職業に就かなければいけないと思い、「漫画家」を目指すことにしました。

漫画家であれば、会社に出勤することもない。家の中で1人で仕事ができる。コミュ症でもなれる。集団生活が苦手な僕でもなれる ! 「オレ、漫画家になる!」「オレ、マンガカニナル !」

それが漫画家を目指す理由でした。

もしかしたら僕は、漫画家でなくても良かったのかもしれません。家庭にも学校にも居場所がなかった僕が、「1人で生きて行くことができるようになる」これが僕の人生の目標になりました。

家庭は冷え切っててムチャクチャ、学校にも居場所がない、勉強もできない、運動もダメ、同級生からは変なヤツと言われて、みんなに遠巻きの目で見られる。唯一、漫画を描くことにだけは信念をもっていた僕はこう思ったのです。

「漫画で男になってやる」

僕は漫画を必死で描きました。僕が漫画家を目指し始めたのは小学校5年生からなのですが、高校を卒業する18歳までにデビューすることを目標に、毎月1本の漫画を描きました。中学1年生から出版社に投稿を始めました。

実際に僕が漫画賞を取ったのは19歳、漫画家デビューしたのは21歳の時だったので、残念ながら当時の「18歳までにデビューする」という目標は達成できませんでした。それでも21歳で、週刊ヤングマガジンという青年誌でビューしたことは、当時は「お前、メチャクチャデビュー早いな」と言われました。

しかし! いくらデビューが早いとはいえ、僕にも売れない下積み時代というものがありました。漫画だけ描いて生きていける、というほどの収入はなく、漫画家とは名ばかりの、ただのニート状態を3年近く過ごしました。

それが21~23歳ぐらいの時です。

しかし僕は担当編集者から週刊連載をすることを勧められ、売れない漫画家から、月産原稿80枚、月収80万円の一流漫画家の仲間入りをしました。漫画で月に10万円を稼ぐこともやっとだった僕が、デビュー当時では想像もつかなかったようなお金を頂けるようになりました。

単行本は順調に売れていき、月収はすぐに100万円を超えました。漫画を描くだけで月収は200万円、300万円と跳ね上がり、「もうお金振り込まなくていいよ!」と言っても、編集部は僕にお金を振り込んできました。貯金通帳の残高金額が、みるみる増えていきました。

少し長くなりましたが、ここからは、家庭にも学校にも居場所がなく、社会不適合者だった僕が、どうして10代で漫画賞を受賞し、20代で年収2000万円以上を達成できたかと言う、その方法を話していきます。

おそらくここまで動画を観て下さっているということは、「漫画で稼ぎたい」「漫画を描くことで生活をしたい」と考えておられる、もしくは、漫画家という職業そのものについて興味を持って下さっているのだと思います。

YouTube動画で「漫画の描き方」を解説している動画があったり、漫画の描き方の本は売っているものの、「実際、どういう人が漫画家になれるのか」までは解説しているものはなかなかないと思います。

また、漫画の描き方を解説している動画を観たり、本を読んだとしても、それが自分にどう当てはめていいのか、結局自分はどうすればいいのかわからない、そんな風に悩んでいる人もいるのではないでしょうか。

安心して下さい。このチャンネルを観れば、いけてない学生だった僕、社会不適合者だった僕が、10代から漫画で賞金をもらい、担当編集者を付け、どのように最短で周りを圧倒する成果を出せるのか、その思考と具体的な手順が 理解できると思います。

全くの漫画初心者だけど最短で成果を出したいと考えているのであれば、是非最後まで観ていって 下さい。ヒントになる貴重な情報が必ずあるはずです。

漫画家になるには、画力が大事だと思っていませんか? しかし色々な漫画家を見てみて下さい。「この人、そんなに絵がうまいわけじゃないのに、どうしてプロとして活躍しているんだろう」。そう思う人はいませんか。逆にtwitterなどで、「この人、すごくうまいのに、どうしてそんなに有名じゃないんだろう」そう思う人もいるかも知れません。そして、

「僕は、私は、こんなに頑張って漫画を描いているのに、どうして自分は認められないんだろう・・・」

そう思ったことはありませんか。

そう、そして多くの人は言うのです。「漫画家になる人は、特別な才能がある人だけだよね」「やっぱり運だよね」。

ここであなたに、ショッキングな事実をお伝えしなければなりません。漫画家になるためには画力やストーリー力だけでなく、「才能」と「運」、やはりそれが重要だということです。

それは実際、漫画家になった僕が、身をもって実感しています。漫画家が努力していないというわけではありません。漫画家を真剣に目指している人は、みんな努力しているのです。それでもプロになれる人、なれない人というのは必ずあって、そこはやはり「自分の才能が100%開花したか」「連載を掴み取る運があったか」という部分が0ではありません。

しかし、それは自分で操作できないのでしょうか? 多くの人は「才能」や「運」は天からやってくるものであり、自分ではどうしようもないもの、自分が手にするのは無理だと思っています。

そう、まるでたまたまガチャが当たるか否かのように。

そこが間違っているのです。才能や運は、自分で操作できる、そこに気がついた人が、最短でプロになれるのです。

ここからは僕のストーリーを話していきます。

僕が東京に上京したばかりの時です。秋田書店週刊ヤングチャンピオンの連載のために、地元の大阪から東京にやってきました。その連載で月収40万円が入る約束でした。

26歳の時でした。

しかし上京した途端、始まるはずの連載は「なかったことにしてくれ」と編集部から言われたのです。原稿料40万円が入る約束だったから僕は東京に上京したのに、上京した途端、収入は0円に。しかも連載のためにアシスタントが入る大きなマンションを借りたため、家賃は毎月10万5千円、光熱費や税金の支払いも入れると、月収20万円あったとしても足りませんでした。

すぐにゲームセンターで掃除のアルバイトを始めました。しかしそんなアルバイトで月収20万円以上も稼げるわけもありませんでした。僕は漫画の仕事があると思って東京に来たのに、実際にやっていたのはゲームセンターのゴミ掃除。タバコと甘いジュースと苦いコーヒーが混ざったゴミのイヤな匂いが今でも忘れられません。

関西からやってきた僕は、話し方のイントネーションが違うため、年下のアルバイト仲間にも笑われてバカにされていました。僕は卒業した大学が京都だったため、地名や学校名が、東京の人には聞きなれず、「これは実在する大学なのか」「あなたは中国人か」と疑われました。

社会不適合者の僕は、そのアルバイトも、2ヶ月も続きませんでした。

僕は「やっぱり、通勤するような仕事は無理だ」「会社やお店みたいに、何かの組織に属し、タイムカードを押してお給料をもらうという形の仕事はできない」と、あらためて思いました。

「なんとか漫画で食べていけるようにならないと、僕は生きていけない」

東京には家族も親戚も友達もいなかったので、僕はたった1人、誰にも助けを求めることができず、東京という無人島にいる気持ちでした。

「大阪の実家に帰ればいいじゃないか」と思う人もいるかもしれませんが、僕の家庭は崩壊しており、実家にすら帰る場所はありませんでした。

僕は冷え切った家庭で育ったため、東京に上京してからも、実家から仕送りももらったことなどありません。僕は大阪の実家にいる中学生ぐらいから、食べ物さえ与えられなくなってきたぐらいなので、実家に僕と言う子供、いや、家族に僕という人間はいないも同然でしたし、僕にとっても家族などいると感じてしませんでした。

僕はひたすら漫画を描いて、いろんな出版社に持ち込みをしました。しかし僕の漫画を採用してくれる漫画雑誌はありませんでした。

一応は漫画家デビューはしているものの、僕はまだプロとして未熟だったのです。僕はデビューが21歳と早すぎたので、僕という漫画家自身に人生経験も少なく、僕が描く漫画には、ドラマに深みがなかったのです。

東京に来て、いきなり秋田書店から捨てられ、ゲームセンターの掃除のバイトも続かず、実力もない僕の漫画が採用されるわけもなく、僕の気持ちはどんどん沈んでいき、暗く落ち込んでいきました。

「こんな僕が描く漫画なんか面白いわけがない」「連載があると信じて、出版社を信じて、東京に来たなんて、自分がバカだったんだ」「僕はもうここで死のう。帰るところもないし、今持っている貯金が尽きる時が、僕の命が尽きる時だ」

「漫画で男になるなんて、僕はなんてバカげたことを考えていたんだろう…」

僕の心はネガティヴ一色でした。当たり前ですが、そんな気持ちで描いた漫画が面白いわけはなく、当然ですが、ボツになったクッソつまらない僕の漫画原稿やネームが、家に山積みになっていきました。

しかし、そんな状況が数ヶ月続き、僕は思ったのです。

「このままでは、僕は本当に東京という無人島で死んでしまう」

このまま死ぬなんてイヤだ!  僕は死にたくない! かと言って大阪の実家にも帰りたくない!  あそこは地獄だった。家にも学校にも僕の居場所はなかった。東京には誰も僕のことを知ってる人はいないけど、東京には出版社がある!  東京には夢がある!  僕は、僕の漫画を描くために、東京に来たんだ!

そして僕は、180度自分に対する考えを変えたのです。

「僕は確かにまだ未熟だが、僕だって一度は認められ、デビューしたんだ。僕の漫画が面白くないわけはない。出版社は僕を漫画業界から締め出したいわけじゃない。僕と言う新人の漫画を待ってくれているんだ。この日本中に、まだ見ぬ僕の読者がたくさんいて、僕の漫画を待っててくれているんだ ! 待ってて、みんな! 僕の漫画の読者たち !」

僕は真剣にそう思ったんです。

すると不思議なことが起こり始めました。今までどこの雑誌も僕の漫画を採用しなかったのに、採用通知が届くようになったのです。僕が自分に対する考え方を180度変えた瞬間から、たった2ヶ月で僕のところには5本の読み切り漫画の仕事が入ってきました。ぼくは1人で120ページ以上の漫画原稿を描き上げ、たった2ヶ月で、アシスタントなしで、80万円以上の収入を得ることができました。

「やった! これで命が伸びた! これでしばらく生きていける! 」

するとだんだん運が僕に回ってきました。5本の読み切り漫画を描き終えた頃に、短期集中連載の仕事が入ってきたのです。短期集中連載とは「何回で終わり」とゴールが決まっている連載漫画のことです。

秋田書店の週刊少年チャンピオンという雑誌から、5回で終わる短期集中連載をやってみないか、と言ってもらえたのです。20ページ×5回で100万円の仕事になるので、そのお金があれば僕は5ヶ月ぐらい生きていけます。もちろん僕は引き受けました。

その短期集中連載の漫画の設定は、双子が主人公の話でした。見た目はソックリだけど仲は激悪。お互い相手のことを殴ってやりたいぐらい、嫌いあっている双子なのですが、その双子は「不運共有双生児」という、ケガや痛みをリアルタイムでリンクする、という設定にしたのです。お互い大嫌いな兄弟なのに、片方がケガをすると自分も傷ついてしまうため、片方がケンカでピンチになると、助けに行かなくてはいけない。「大嫌いなのに、助け合う」という、奇妙な兄弟愛を描いた、双子が主人公の漫画でした。

すると、その設定が面白いということで、編集長のツルの一声で短期集中連載は長期集中連載に変更されたのです。しかも読者のアンケートを取る前に。僕は月収は80万円が約束され、単行本が売れたことで、月収はあっという間に200万円、300万円と膨らみました。

ここで気づいて頂きたいのですが、僕は自分の思考を変えることで、才能を開花させ、運も掴んだ、ここなのです。

僕はこれは全てのビジネスに通用する方法だと悟りました。何故なら多くのスポーツ選手や、大企業の社長さんは、みんな同じような話をしているからです。僕はこの、才能と運を開花させる方法を文章化し、「コモンセンス」という名前をつけました。「才能と運」それを誰でも掴みやすいようにしたのです。僕が運営するペガサス大学に来た受講生1人1人に、この才能と運が開花する「コモンセンス」を最初にプレゼントしています。

これを手にした受講生たちはみんな喜んでくれます。その言葉に感動して涙を流す受講生もいます。ペガサス大学の漫画学部では1回目に成功者のマインドになって頂く授業をするのですが、正直言ってこの1回の授業を受けるだけで、目の輝きが変わります。

そして受講生の皆さんは、漫画が急速にうまくなったり、僕の授業を1~2回受けただけで、有名漫画雑誌で担当編集者がついたりという、変化を実感されています。この、僕が開発したコモンセンスは、本来なら目標が達成するまでに5年かかるところを3年にしたり、3年かかるところを1年にしたりという、成功までの時間を縮めるという、驚異的なブースト効果があります。

この「才能と運を掴むコモンセンス」さえ、活用することができれば、多くのフリーランスの仕事を成功させることができます。僕が漫画家以外に、学校講師や人生相談師、YouTuberやタロット占い師など、何をやっても失敗しないのは、この「才能」と「運」を操作するコモンセンスを習得したからです。成功するための「才能や運」は天から授かるまで待たなくても、自分から取りにいけるということなのです。

そしてそれは、ペガサス大学の漫画学部でしか、教わることができないということです。「漫画の描き方」なんて次元の話ではなく、自分の漫画の個別アドバイスはもちろん、編集者との付き合い方や、目標達成までの戦略の立て方など、「漫画家になるまでのオーダーメイドコンサル」を受けることができるのが、ペガサス大学の漫画学部なのです。

これを26歳だった頃の僕に教えたい! 若かった時の僕は、この成功を掴むコモンセンスを知りませんでしたから、ずいぶん遠回りしました。

ここまで、10代で漫画賞を受賞し、20代で年収2000万を達成するまでのお話してきましたが、だいぶ飛ばしているところもあります。この動画を作っている時に、全てを伝えることができないと悟りました。ですので、それらについては、今後のHyde Channelの動画でもお話ししていこうと思います。今からチャンネル登録しをして頂ければ、聞き逃さずに済むと思います。

ここまで視聴して下さった皆様、最後に1つだけ伝えたいことがあります。

僕は特別、絵や漫画の才能がなかったのに、家庭にも学校にも自分の居場所がなく、出版社にも捨てられた、売れない漫画家だった僕が、どうして漫画でお金を稼げるようになったのか。

それは目の前にあることを全力で 取り組んでいったからです。キャラクターを作る、プロットを作る、ネームを作る、そんなコツコツとした作業を続けたからです。信じられないかもしれませんが、それらを1つ1つ泥臭く、一生懸命やることが、一番の近道だったりするのです。

そして、「漫画でお金を稼ぐ」ということは、決して汚いことでも悪いことでもないのです。お金は自分の命を守ること。お金は僕らが生きて行くために必要なものなんです。ペガサス大学の「自分らしく輝きながら生きたい人をアシストする」というテーマは、お金を稼ぐということも含めてのことなんです。何故ならお金がなければ生きていけないからです。お金がないと、したいこともできないんです。

漫画でお金を稼ごうとしている人は純粋なんです。「漫画を描いて生きていきたい」ただ、その一心で漫画を描いているんです。僕はそれを知っているから、その人たちを全力で応援していきたい。

今回は自分語りをしてしまいましたが、次回からはまた、具体的な漫画のアドバイスや戦略について話していくので、是非チャンネル登録をしておいて下さい。

いいかがだったでしょうか。今回は、家庭にも学校にも自分の居場所がなく、1度出版社に捨てられた僕が、漫画家としての収入、年収2000万円以上を達成するまでのストーリーを話してきました。そして成功するためには「才能と運」がやっぱり必要で、だけどそれは自分で操作できると話してきました。

現在、僕はペガサス大学で受講生を募集しており、その、才能と運を引き寄せる方法を文章化した「コモンセンス」というものを、受講生1人1人、全員にプレゼントしています。それはみんなに成功してほしいからです。皆さん、僕が提案するコモンセンスを読んだだけでも、目が覚めたように「ハッ」とされます。中にはうれしくて感激して「私は本当はこうなりたかったんだ」ということに気がついて、涙を流す人もいます。

「私はこんな自分になりたかったんだ」「私はこんな風に成功したかったんだ」「私は本当は、こんな風に生きたかったんだ」これに気がつくと、夢が叶う前からワクワクドキドキして、自分のパフォーマンスが10倍にも20倍にも大きくなります。そう、成功へのブーストがかけられるのです。漫画の描き方だけでなく、才能と運をつかむことができる自分に変わるのです。

僕は「歩くパワースポット」と言われています。あなたもペガ大にきて、是非僕から成功のコモンセンスを受け取って下さい !

これからも僕から成功マインドの波動を受け取りたい人は、是非チャンネル登録をお願い致します。twitterやnoteの登録もお願いします!

今回も最後まで観てくれてありがとうございました。少しでも僕の話が良かったと思ってくれた方は、コメント欄に感想やいいねをお願いします。それではまた、次回の動画でお会いしましょう。

頑張れよ! 26歳のオレ! そして26歳のオレに近いみんな !

ペガサスターッチ!

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