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奥歯を噛み締める


昨年、近しい人を亡くした。

それまでの私にとって死と通夜と葬儀はぼんやりと離れたところにあったものだった。
だが今回はそうもいかない。
同じ家の中で寝食を共にした人を亡くすというのはとてつもなく”近い”ことだった。

1週間程の入院後の突然の別れだったから、
別れから通夜を終え、初七日を終え、四十九日を終えるまで
慣れないことに私たちは右往左往した。
めんどくさい行事の数々にどっと疲れることもあったけれど
その最中にこれもある意味優しさなのかなと思うこともあった。
ただ目の前のことをこなすその日々が
ふと襲ってくる痛みのような悲しみを和らげてくれたような気がする。
それは一過性の麻酔のようなもので痛みを鈍くをしてくれるが
決して拭い去ってはくれない。

全てが落ち着いてきた今、何度でも悲しみが波のように押し寄せる。

数か月前までは普通に食事をした人。
数か月前には「おかえり」を言ってくれた人。
数か月先に何をしようかという話をしていた人。
ふと、その人の生きていた頃のことをありありと思い出せば
もう二度と微笑みを交わすことがないのだと何度でも理解し、奥歯を噛み締める。

繋いだ手の温もりを今も思い出す。
だけどいつかあの笑顔も、あの声も、あの姿も、あの温度も、全部朧げになってしまうのだろう。
これまでがそうだったように、全てをありのままに覚えてはいられないから。
それも悲しくって私は今日も奥歯を噛み締める。

でも、この悲しみはきっと正しい。
悲しいことを悲しいと言うこと、辛いことを辛いと言うこと。
感じているはずのそれを感じられなくなる時が一番恐ろしいことを私は知っている。

悲しみにムラがあることも知った。
こんなに悲しくても私は今日も食事をしてテレビを観て人と話して、笑う。
時にはきっと今頃あの人は極楽で走り回ってるんだって冗談を言うこともある。
たぶん私が酷い悲しみに襲われるときは私の心が弱っているときだった。

悲しみにはムラがある、私自身の心の在りようで。

私が悲しむときは私が弱っているとき。
あの人はきっと弱って普段は笑っていられることで泣いてしまう私を見たら悲しむだろう。
そんなときに思い出すあの人の笑顔はこの瞳から涙を溢させるけど、同時に胸を温かにさせる。
しゃんとしないといけない気にもなる。
生きていかなくちゃ。しょうがない、生きているんだから生きていくしかないじゃないか、と自分に呟く。


今日もぽろぽろ泣いたら、温まる胸を抱え込んで奥歯を噛み締める。





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