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創作の振り返り。

 思えば、僕も多くの小説を書いてきたものだが、ふと若い頃はもっとセンセーションを呼び起こそうとか、大きなことを考えていたなと、思い出した。若いときは、文学賞を取ってベストセラーを書き、一攫千金をなすことを夢見ていたものだ。しかし、今はその夢よりも、芸術の追究に走ってしまった。走らざるを得ない自作に対する無評価があり、はじめは評価を受けるために、のちには作品の質を高めるために、芸術の向上を目指した。
 若いときは、だからある程度奇を衒っていて、驚かすような小説を書こうとした。その名残がアブストラクト小説だが、この小説はあまり理解されない。自分ではかなりユニークなものだと思っていて、今後もアイデアを見つけ次第、類似の作品を書くつもりなのだが、それは作品性が高く、作っていて面白いからにほかならない。なかなかあのような風変わりな創作物は、ほかに類を見ない。
 しかし、最近書いている普通の純文学小説に関して、ふと何を書くべきなのか、見失いそうになった瞬間があった。ただ書けば良いというものではないので、何か目的が無ければならないわけで、その点文学論を自分なりに纏めておいて正解だったのかなと。僕は、初め「思索美」と言っていた概念をもとに、小説を書いた。「思索美」とは、頭の中で考える美しさと言うことで、思索というと筋道立てて考えることと辞書にはあるため、どうも意味がズレていることにあとから気づき、現在は「想念美」と言葉を改めた。その「想念美」というのは、頭の中で想起する美しさということであり、それを描くために、僕は筆を執っている。
 そういうものの典型的な例が、「秋の乙女たち」である。さしたるオチもアイデアもないのだが、主人公たちの立ち回る小説世界の美しさということに、そのテーマがある。それは、かならずしも現実にはあり得ない世界かもしれないが、読んでいる間はその世界を楽しむことができるものである。
 僕の文学論では、そこから現実の美しさに繋がるものでなければならないとあって、そのような芸術的テーマを背負っているが為に、すこしも僕の筆は空虚には成り得ず、芸術の探究になってくるだが、じっさいこの現実の美しさに目を開かせるというのは、難しいことである。
 たぶん、「癲狂恋歌」系のロマン的小説では、充分この任には耐えない気もする。現実の美しさに目を開かせるというのは、じつはつまらないものを美しく感じさせる手腕が必要だけに、正岡子規の「写生」などのほうが、うまく行くような気もするのであるが、自分の小説がどのような感想を持たれるものであるのかは、なかなか作者には客観的に判らず、目的と創作が一致していないのではないかと思ったりもする。
 まあ、投げ遣りなわけではないが、創作というのは基本神との対話であり、自分の手で作るものではないというのが僕の認識であったりするわけで、そのようなときに自分の小さな目標というものは、それほど重要な意味も持たないようにも思う。それでは無責任だという指摘も受けるかもしれないが、自分の手で総て作ると驕るよりは百倍ましだろう。
 そのようなわけで、自分では作る目標として「想念美」からの現実美を想定しているが、かならずしもその目的通りに作れているか判らないという神懸かり的なところもあり、その未知性が却って僕を痺れさせる要素にも成っている。判りきった創作など面白くもなんともない。創作の中に神を見ると、神はさまざな真実を教えてくれるものなのだ。

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