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頑張ること、努力することってものすごく辛い

こんにちは。ぴーなっつといいます。
今回は頑張ること、努力することについて書きたいと思います。


頑張ることって、絶対的な正義なのでしょうか。
逆境を乗り越えて成功した人の経験を、美談で終わらせて良いのでしょうか。逆境を乗り越えられた人がいるのからといって、今頑張れない人は怠けていると言えるのでしょうか。
あるいは成功した人の生き方を真似すれば、私も成功できるのか…?



私は基本的に、いいえと答えたい、と思いながら生きています。
一応断っておくと、私はこういう生き方が良いとか、こうするべきだみたいなことは一切考えていません。

頑張るのってそんなに偉いの?!

私はまだ大学生で生きてきた時間も短いですが、部活でも勉強でも習い事でも受験でも就活でも、頑張ることがあまりにも美徳とされすぎていたなあと感じています。(学校などの環境にもよりますが!)

特に大人に向けての一般的なルートとして、勉強を頑張って、良い大学に入って、良い会社(何をもって良い会社と言うんでしょうか。一般的には給料なんですかね。お給料高いのが偉いかと言われればそうではないと思いますが、この話は別でしてみたいです。)に入ることが良しとされると思います。
もちろん一つの幸せのあり方ではあると思いますが、このルートから外れるのが良しとされないのは、あまりにも画一的な基準で暴力的なことだと思います。

受験のための塾とか、塾のための塾とか、就活で無双するためのコミュニティや塾とか。常に頑張ること継続することの大切さを説かれます。塾はそういう場所なので仕方ないといえばそれまでですが…
そういった環境が一部の人にとって苦痛になるのは、
一般的なルートから外れられないから、結局塾みたいな場所に入るしかなくて、頑張るしかなくて。
でも周りとの温度差や自分が頑張れないことへの苦しみ・絶望・つらさを感じるからなのではないかと思っています。もちろんそれだけではないことは承知の上ですが。
自分の中高の同級生や、家庭教師のアルバイトで教えた学生でも、同じような子を何人も見たことがあります。
もはや、私たちの生き方に選択肢はほぼないのかな…

みんながみんな、同じだけの努力をすれば報われるのでしょうか

少し抽象的な話に戻ります。逆境を乗り越えて成果を出すことを美談で終わらせて良いのでしょうか。
同じ成果を出した人が何人かいたとき、その人たちの努力量は本当に同じか、と疑問に思います。
きっとめちゃくちゃに酷い環境で努力を重ねた人もいれば、ある程度整った環境で努力を重ねた人もいると思います。
もちろん努力するのは素敵なことで、尊敬できることですが、努力が実るのは、ある程度の土台があってのことです。
家庭環境、経済状況、生まれた土地、健康状態などそもそものスタートラインが違う中で、努力量は本当に同じでしょうか?
努力しても成果が出ないのは、その人が怠けているからでしょうか?
逆境を乗り越えた人を美談として消費することは、スタートラインの違いがあるという深刻な問題を無理矢理覆い隠して、成果を出せなかった人を否定することとイコールだと思います。

まとめ的な何か…

少し長くなってしまいましたが、

  • 何かを頑張ることは素敵だけれど、頑張ることって本当に大事?頑張るべきことが画一化されすぎていない?

  • 逆境を乗り越えた人を美談として語ることは、その背景にある苦しみや社会の深刻な問題(格差など)を覆い隠すことであり、「できない」人を否定することにつながるのではないか?

ということを考えていました。
とっても読みにくいnoteになってしまいました…改善していきます。
最後までお読みいただきありがとうございました!



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