見出し画像

いま読んでおきたい! 『すこし痛みますよ 〜ジュニアドクターの赤裸々すぎる日記』 訳者あとがきを特別公開(ドラマ化情報追加!)

イギリスのNHSをご存知ですか?新型コロナウイルスに感染し、公務復帰したジョンソン英首相の発言でも話題になっているイギリスの「国民保健サービス」のことです。そのNHSのジュニアドクターによる日記が、PEAK booksレーベルの2冊目となる『すこし痛みますよ 〜ジュニアドクターの赤裸々すぎる日記』(『This Is Going to Hurt 』)。NHSとは?、イギリスのジュニアドクター制度とは?、日本の医療現場と異なる部分、重なる部分…。医療現場に多くの負担がかかっているいまこそ読んでおきたい書籍としておすすめします。今回は特別に、翻訳家の佐藤由樹子氏による「訳者あとがき」を公開します。

訳者あとがき

 著者のアダム・ケイは、インペリアル・カレッジ・ロンドンを卒業後、6年間産婦人科医として勤務したのちにテレビのコメディ作家に転職した、という異色の経歴の持ち主です。2015年に、ジュニアドクターの労働環境が大幅に改悪されたことに心を痛め、自身が医師として勤務していたころに書いた日記を出版しようと思い立ちました。

 我が国でも医療モノには根強い人気があるようで、医療ドラマ、医療漫画、医療小説など、いずれもヒット作のひとつふたつはすぐに思い浮かびます。リアリティとエンタテインメント性のバランスはそれぞれですが、ドラマチックな命のやり取り、「ゴッドハンド」に託される希望、組織の中で揺れる医師の人間性などなど、テーマも様々。

ある意味で出尽くした感のある医療モノですが、本作は間違いなくそこに一石を投じるものとなるでしょう。事実は小説よりも……とはよく言ったものですが、本作はまさに、下手な作り話などよりもずっと奇怪で、痛快で、悲劇的なノンフィクションなのです。


 特別な知識がなくても十分に楽しめる作品ではありますが、背景となるイギリスの医療制度について、少しだけ説明させていただきます。

 「ゆりかごから墓場まで」は、言わずと知れた第二次世界大戦後のイギリスにおける社会福祉政策のスローガンです。このスローガンのもと、1948年に誕生した完全国営の医療システム(NHS)により、今日にいたるまでイギリスの医療費は基本的に無料です。

 国民はまず自分の住む地域から、いわゆる〝かかりつけ医〟となるGP(総合診療医)を選んで登録します。そして、救急の場合をのぞき、病気になるとまずこのGPにかかり、必要に応じて総合病院に紹介されるのです。

イギリス国民は長年この制度を誇りとしてきたわけですが、70年代以降、国家の財政難からNHSは慢性的な資金不足に陥り、90年代になると手術待ちが数カ月に及ぶなど、医療崩壊がささやかれる事態となりました。

この時点で多くの医療従事者が国外に流出し、同時に金持ちの患者も国外に流出しました。2000年代に入り、医療費の総額を1・5倍にするという大改革が行われた結果、医療に対する国民の満足度は大幅に改善しました。本作の著者、アダム・ケイが医師としてのスタートを切った2004年は、ちょうどこの時期に当たります。


 ところが……医師たちの現実の厳しさは、これでもかというほど。容赦のない長時間労働。深夜の孤独な闘い。ときに理不尽な研修制度。世間のイメージとは裏腹に駐車場のメーター(!?)ほども稼げず、毎年の異動でパートナーとの関係も危ぶまれる。極端な人手不足でシフトは融通が利かず、自分の結婚式の日ですら丸1日休むことができない(どこかの国の企業戦士も真っ青です)。


 ジュニアドクターについても少し説明しておくと、まずイギリスでは、医学部を卒業後に2年間病院で研修を積んだのち、GPとして開業するか、専門医のコンサルタントを目指すかを決めます。その後も、GPになるには2年ほど、コンサルタントを目指す場合は6年ほど、病院での研修が続きます。

このコンサルタント、もしくはGPになる以前の医師全員をひっくるめてジュニアドクターと呼んでいます。実質的に病院における医療を支えているのは彼らジュニアドクターということになります。

 クレーマーすれすれのモンスター患者、怪しげな代替医療、どんなに誠意を尽くしても避けることのできない訴訟問題、移民問題。抱腹絶倒のエピソードの端々で、著者はさりげなくこうした時事問題を取り上げています。

 また、NHSを「1940年代のビンテージカー」にたとえ、要所でそのポンコツぶりを皮肉る一方で、全額患者負担の私立病院という最新モデルの超高級車が並走していることにも触れています。平等、無料の看板を掲げる医療制度の裏側で、格差は確実に広がっているのです。


 我が国でもいつのころからか、病院へ行くとスタッフから「お客様」と声をかけられるようになりました。病院の経営者から見れば、確かに私たちはお金を落としてくれる「お客様」なのかもしれません。

しかし、どこかしら患って不本意ながら病院へ足を運んでいる側からすれば、「お客じゃないよね?」「またお越しください、なんて思ってないでしょうね?」と言いたくもなるのです。それでいて、一歩病院に足を踏み入れればホテルやデパート並みの快適さを期待してしまう……トイレはきれい?ソファーが破れたりしていない?階段にほこりがたまっていない?スタッフは丁寧に接してくれる?そう、私たちは「お客様」なのです。できれば行きたくはないけれど、行くからには最高のサービスを求めてしまう患者と、患者を「客」としてカウントし、医者を「雇う」病院という組織。 

 そして、そのはざまで「客」のわがままに応え、時には「患者」の命を預かる医師は、組織のバックアップもないまま、孤独な闘いを強いられています。本作の中でも、今後は「患者」を「クライアント」と呼ぶべきだというエピソードが出てきました。患者側の権利意識が高まり、医療訴訟が日常化し、ネット上では玉石混交の情報が飛び交うこの頃、私たちは改めて、医者は神様などではなく私たちと同じ人間であり、医療とは結局はシステムではなく人であることを思い出すべきなのかもしれません。そして忘れてはならないのが、本作で著者が訴えている医療の現場の問題点が、遠い異国の問題などではないということです。我が国の医療もまた、現場の医師たちの頑張りで支えられている現状があるからです。

 2017年に出版されて以来、本国イギリスで本作が高く評価されてきたのは、もちろん国民の愛するNHSにスポットライトを当てたノンフィクションという要素もあるとは思いますが、何と言ってもブラックユーモアがたまらなく面白いからなのでしょう。

翻訳をするうえで最も難しいのがユーモアの翻訳です。オリジナルの面白さを正しく伝えられているか?笑うべき箇所で笑ってもらえるか?自問自答する日々が続きました。ユーモアを伝えられなければ、ユーモアの奥にある真実の訴えを届けることもできないからです。国の違い、文化の違い、言語の違いを越えて、笑っていただけたなら、これに勝る幸せはありません。

 泣いて産まれてくる私たちにとっても、「ゆりかごから墓場まで」笑って暮らせるのが理想です。とはいえ、現実は厳しく、ときにはつらいことも、悲しいことも、痛むことも、病むこともある。誰もがその現実を知っているからこそ、笑い、笑わせることがこんなにも高く評価されるのだと思います。

著者が医療という分野からコメディという分野に転身したことも、もしかすると人を癒すという点では何ら矛盾のないことだったのかもしれません。

2019年11月 佐藤由樹子



↓ 読者の方より寄せられたレビューや、SNSに投稿された感想のリンクをまとめてご紹介! ↓ 

(追記 2022/1/26)
『This Is Going to Hurt 』映像化!2022年2月8日、英BBCにて放送スタート

(追記 2022/3/1)
日本でも2022年4月6日より放送スタート (「産婦人科医アダムの赤裸々日記」)

スクリーンショット 2022-03-24 13.19.59


▶︎詳しくはこちら(WOWOWのサイトへ移動します)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?