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『撃ち落とされたエイズの巨星』が生まれたいきさつ(前編)【無料公開】

撃ち落とされたエイズの巨星』(2019年11月25日発行)の発行を記念して、本書中の、“この本が生まれたいきさつ”を公開します。著者のシーマ・ヤスミン氏がユップ・ランゲ博士の生涯を綴るにいたったいきさつとその想いが語られています。

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この本が生まれたいきさつ

 ユップ・ランゲと初めて会ったのは、私が17歳で理想に燃えていたときだった。彼は背が高く、見るからに立派な人という感じだった。ロンドンのある会議場で、ノートを手に演台から離れ、白髪まじりの短い髪をさっとなでた彼は、ちょうどHIVについての講演を終えたところだった。
 ユップが所属する国際エイズ学会でコンサルタントとして働いていた母は、彼のいるほうに私をそっと押し出しながら言った。
「ほら、行きなさい。今なら話ができるわよ」

 ただ、私は話をしてもらえるかどうか不安だった。
 私はよく学校をさぼっていた。ロンドン東部にある自宅に教科書を置きっぱなしにして、ハックニーから西へ向かうバスに乗り、グレート・オーモンド・ストリート病院へ向かう。そこで、HIVやエイズを患う若者とその家族を支援するボディ&ソウルという団体の活動に、ボランティアとして参加していたのだ。

 私は14歳のときから、その団体の仕事を手伝っていた。若者たちの相談に乗り、試験勉強や、初恋や、HIVの治療薬のきつい副作用についての悩みを聞いた。その一方で、政府に学校での性教育の改善を働きかける活動にも参加した。私は、性教育やHIVに対する意識を高める活動を評価され、全国レベルで表彰されたこともある。しかしその一方で、欠席ばかりしていたので、学校の先生たちから母に苦情の電話がかかってきていたのだ。

 だから、ユップが私のようなダメな学生と話をしてくれるはずがないと思った。私が知っているイギリスの教授は、かしこまったお堅い方ばかりだったからだ。たとえば、HIVの研究室で実験作業を体験させてほしいとお願いしても、答えは「ノー」だった。私にさまざまな注意事項や手順を覚えさせるのには時間がかかるし、面倒だからだ。

 でもユップは違っていた。演壇の前で半円状に彼をとり囲んでいた科学者たちから逃れ、無駄話に加わらないすべを心得た人らしい身のこなしで、彼は人だかりのあいだを縫うようにして、さりげなく抜け出していた。母から聞いていたが、ユップは世間話が大嫌いらしい。学会後のどうでもよいおしゃべりを避けるために、わざわざ携帯電話を耳に押し当て、電話がかかったふりをすることもあるのだとか。しかし、その日彼は、私のほうに歩いてきてくれた。

「私、あなたのような人になりたいんです」と、私は唐突に話しかけた。「勉強して博士課程まで進んで、エイズの治療法を見つけたいと思います」

ユップはにこっと笑った。そして、私の顔の高さまで頭を下ろしてきて、こう言った。
「人を助けたいなら、まずは治療のし方を学ぶ必要があります。医学部に行きなさい」

 そこで、私は医学部に進学した。
 当時私は、ユップが科学者であることは知っていたが、彼が医者でもあるということに気づいていなかった。医者は、1日中病院で患者を診察しているものだと思っていたからだ。

 また、医者は個人を診るのが仕事で、集団としての市民全体の面倒を見ることはないと思い込んでいた。政府の役人にガツンともの申したり、薬の値段を下げろと製薬会社をがみがみ叱りつけたりして、一気に何千人もの命を救うようなことを、一人の医者ができるなどとは、考えたこともなかった。私はユップと出会うまで、そういうことを理解していなかったし、公衆衛生という概念があることすら知らなかったのだ。

 そのときユップのとなりには、オランダのウイルス学者で世界屈指のHIV研究者でもあるチャールズ・ブーシェ博士もいた。チャールズは、まるで漫画に出てくるマッドサイエンティストのような風貌だった。丸眼鏡をかけ、頭にはもじゃもじゃの茶色い巻き毛が逆立っている。
 そして、私がどのようなキャリアを目指すべきかユップに相談していたら、チャールズが、夏休みにユトレヒトのウイルス研究所に勉強においで、と誘ってくれたのだ。

 それは夢のような3カ月間だった。ひたすらニシンの酢漬けを食べ、SARSを引き起こすウイルスのネズミ版をシャーレに植え付けた。私はピペットの使い方も、ゲル状の培地の作り方も、そのオランダの研究室で学んだ。ウイルスが抗ウイルス剤に対する耐性を作る過程を観察するためだ。そうして実験室で得られた知識が、いずれは患者の枕元に届くことになるんだな、と思った。

 私はユップのアドバイスに従って医学部で学び、チャールズの勧めでこの本を書くことになった。2016年に、アムステルダムにいるチャールズから電話があり、ユップの偉業を多くの人に伝えなければならない、と言われたのだ。

 そのとき私は、ダラスの家を引き払ってワシントンDCに引越す準備をしていた。転職し、3つ目となる職に就くためだった。卒業後イギリスの病院で医者として働き始めた私は、その後アメリカ政府の感染症情報サービス(EIS)の調査官(通称「病気の探偵」)として勤めてから、トロント大学でジャーナリストになるための専門教育を受けた。

 チャールズから電話をもらったときは、『ダラス・モーニング・ニュース』紙の記者として働き、テキサス大学ダラス校で疫学の教授も務めていたが、心機一転したいと思っていた。前年に自宅が竜巻の直撃を受けたからだ。そのとき家族は家の中にいたが、無事だった。私はエボラ出血熱の流行を取材するためリベリアに行っており、留守だった。

 私はワシントンに引越してフリーランスで働きながら、自分のEISでの経験について回想録を書き始めることを考えていた。でもユップについて書く勇気はなかった。あの複雑な人物を、一人の科学者として平面的に紹介してしまうことを恐れたのだ。彼についての記事は、どれも聖人伝のようだった。伝えきれていない、と私は思っていた。

 本の企画書を書いてみます、とチャールズには伝えたものの、私はそれに着手せず、何カ月も放っていた。
 それが、ある日のこと。私はオレゴン州の田舎にあるプレイヤ・レジデンシーという作家のための宿泊施設に滞在し、ログハウスのポーチに立って、湖の景色を眺めていた。水の中をマスクラットがすべるように泳ぎ、背後に広がる白い塩の平原の表面をかすめるように鳥が飛んでいる。

 そのとき、私は思ったのだ。今こうして、自分の医者としての人生を振り返る本を書いているのも、ユップのおかげだ、と。

 あの日、彼は17歳の私が抱いていた野心と意欲を見抜いた。そして、難しいからやめておきなさいとか、とりあえず目の前の勉強をしなさい、とは言わず、およそ不可能なことを可能であるかのように語ってくれたのである。

 ムスリム教徒の移民のコミュニティ(女の子は将来主婦になるものとして育てられ、大学に進学する者はほとんどいなかったし、医学部に行った者は周りにだれ一人いなかった)でシングルマザーに育てられた私でも、当然医者になれるとユップは考えていた。そして、私は彼の言葉を信じた。あのときの短い会話で、私の人生が変わったのだ。

 ユップが亡くなった日、『ダラス・モーニング・ニュース』紙の仕事を始めて2週間目の私は、前日の1面に載せた記事について話をするため、CNNテレビに生出演するところだった。その記事はメキシコから国境を越えてテキサス州に入ってくる子どもたちについて書いたものだ。

 なかでも幼い子はまだ6歳だというのに、一人で歩いて来たのだ。その子たちは不潔でアメリカに病気を持ち込む、と政治家は怒りの声をあげていた。エボラ熱を持ってくる危険があるとさえ言っていたのだ。これに対し私は、子どもたちにしてみれば、中央アメリカにいたときよりもテキサスに来てからのほうが病気に感染するリスクはよほど高いだろう、と書いた。

 ところが、生放送が始まる直前になって、CNNのプロデューサーに「あなたの出演は中止です」と言われた。「急なニュースが入りました。ウクライナでジェット機が墜落したのです」と。

 まもなく母から電話があった。
「あの飛行機にユップが乗ってたの。オーストラリアのエイズ会議に行く途中だったのよ。こんなことが起きるなんて……」

 私は急ぎ足でトイレに向かったが、たどり着くまでに顔は涙でぬれていた。新聞社の編集長が通りかかり、なぜ頬にティッシュのくずをつけているのと尋ねる。私はニュース室にずらりと並ぶテレビ画面を指さした。編集長は両手で口を覆った。


後編へつづく。

著者:シーマ・ヤスミン(Seema Yasmin)

イギリス生まれの女性医師、ジャーナリスト。
生化学をクイーン・メアリー大学で、医学をケンブリッジ大学で学び、ロンドンのホーマートン大学病院にてドクターとして働く。2011年からは米国疾病管理予防センター(CDC)に通称「病気の探偵」として勤務。その後トロント大学でジャーナリズムを学び、『ダラス・モーニング・ニュース』の記者となる。
疫学をテキサス大学ダラス校で教えたり、スタンフォード大学のJohn S. Knightジャーナリズムフェローシップに選ばれ、その後同大学で教鞭をとるなど活躍の範囲は広い。
新型コロナに関しても、スタンフォード大学スタンフォード・ヘルスコミュニケーション・イニシアチヴ所長の立場から科学的な情報を発信。17歳のとき(本人曰くダメ学生のとき)に、ユップに出会い、そのアドバイスに導かれて医学の道に進んだ。

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オラニエ妃による序文も、こちらのnote記事でご覧いただけます。



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