青の魔法 (1)
「動物園より水族館が好きなんだよね。」
「うん、私も。」
大きな水槽の中には、彼が好きだという鮫がいた。
鮫の歯並びは近くでみると想像するより牙が鋭くて、瞳はどんよりとしていて虚だった。
暫くすると、鮫は静かに水槽の底で眠りはじめた。
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私が彼と出逢ったのは、まだ真冬の寒さが残る東京の中心地だった。
彼とは、たくさんの話をした。
くだらない話も、過去の恋人の話も、今の仕事の話も、家族の話も、とにかく何でも話した。
私が住んでいた場所と彼の家が近いという共通点もあり、私たちはすぐに仲良くなった。
「あそこのスーパー知ってる?よく行ってたよ。」そんなありふれた雑談をしながら、確実に少しずつ距離が近くなるのを感じていた。
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一月。赤坂にある韓国料理屋さんで真っ白な生マッコリを飲みながら、ほろ酔いになった。
この日の東京は手が悴むほど寒かった。Googleマップを見る時以外は、少しだけ離れて歩いていた。
二軒目は小さなワインバーへ。
シャンパングラスの向こう側には彼がいて、
赤ワインを頼んだ彼のグラスと交換をしながら、
「美味しいね。」と笑い合った。
いつまでも話が尽きなくて、店員さんから「そろそろ閉店です」と声をかけられるまで、他にお客さんがいないことにすら気づかなかった。
会計を済ませて、私たちは店を出た。
「お酒を飲んだ日はわざわざ遠まわりをして歩いて帰りたくなるの。」
「それ、わかる。俺も。」
そんなことを話しながら少しだけ散歩をした。
途中で「コンビニ寄っていい?」と聞かれた私は「もちろん。」と答えて待っていると、
「はい、どっちがいい?」
とあたたかいジャスミンティーと緑茶を両手に持ち私に聞いてきた。
驚きながらも迷わずジャスミンティーを選び、
「ありがとう。嬉しい。」と呟き受け取った。
貰ったジャスミンティーは一口飲むとすぐに冷めてしまったけれど、彼の優しい一面を知ることができて、モテる人はやっぱりスマートだな、なんてことをぼんやりと思っていた。
この日から、彼がコンビニに立寄る時は私の分も必ずあたたかい飲み物を買ってくれる、ということを知った。見返りを求めず気遣いができる人だった。
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二月。渋谷で待ち合わせ。昼からデートをした。
和食が食べたいという私のオーダーにあわせてカウンター並びの定食屋さんに入った。
「隣同士の方が話しやすくて好き。」と伝えると、
「言われるまで考えたことなかったけれど、確かにそうだね。」と彼は納得したように言っていた。
店を出て、歩きながら代々木公園に移動をする。
「俺ね、烏すきなの。ちょっと見てもいい?」
ベンチに座ると目の前の池には烏がたくさんいた。
「烏ってこんなに真っ黒で艶々で大きいんだね。」「お家はどこにあるんだろう。」
「あの木じゃない?」
「みんな何考えてるんだろうね。」
静かで、おだやかな時間が流れていく。
代々木公園ではいつも何かしらのイベントが開催されている。パントマイムをする人、太極拳をする人、ヨーヨー集団、犬を連れて散歩をする人、ステージ裏で待機する人。外国人もいれば、日本人もいる。
混沌とした空気感なのに、規則正しくテリトリーがわかれているから面白い。
この時は、ふたりの間に境界線があることを感じていた。
暫くして、私たちはカフェに移動した。
ソファ席に座り、ふたりでこたつのように毛布をかけてのんびり寛ぐ。
お互いの体温が隣に感じられるくらい近い。
「ここ、お家みたいだね。」
「うん。そうだね、落ち着く。」
お互いの手に触れ合いながら、静かに話をする。
境界線が少しずつ曖昧に溶けていく。
この日から、どちらかが甘えたくなった時は、
「ここ家かと思った。」
と言い合うことが決まりになった。
ほんの少しの照れ隠しと、
甘えたあとの許される言い訳として。
真剣に、真顔で、呟くように言うセリフ。
ここから、ふたりの暗黙のルールが増えていく。
コミュニケーションが少しずつ深く変わっていった。
それは嬉しい反面、失うことが怖いと感じる気持ちも同時に抱えるということだ。
淡い期待も、軽い失望も、自分の中に存在するままならない感情が新たに生まれては消えていくから。
白黒つけられない曖昧でグレーな気持ちとたくさん向き合うことになる。
私はこれから彼と過ごす日々の中で、
彼の新たな一面を知る度に、
自分の気持ちに戸惑う予感がしていた。
彼は電話をする時に、なぜ電話をかけたのか理由を明確に知らせる癖がある。
気持ちがこもったら、一呼吸置くところも、
子どもみたいにはしゃいでふざけるところも、
質問をする時に声のトーンが一段階低くなるところも、
何気ない彼の癖を知れば知るほど、惹かれていた。
もう、好きになる要素は充分だった。
この時間を大事にしたい。
一緒にいると居心地がよく、
私が安心して素でいられる数少ない居場所のひとつになりつつあるから。
どんなに言葉を重ねても、いつも話し足りなくて、
頻繁には会えない距離がもどかしかった。
(続く)
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