なんか変
ここ数日、頭の中が、カスミのかかったようなもやもやで包まれている。
もっとうは、「やらずに後悔するより、失敗して反省する道を選ぶである。」
だから、こうやってnoteは更新し続けるし、ハンドメイドショップもアウトソーシングも続けている。
少しでも、前進していると手ごたえがあるから、心の均衡を保てるわけである私がである、なにやら、道に迷っている迷子なのである。
noteに書く事によって、毎日、頭の中が整理がつくメリットもあるのであるが、このもやもやが言葉に出来ないのである。
どうやら、現在の自分のやり方が、根本的なところから間違っているような気がしてならないのである。
これは、闘病中、父親からお古のカメラと、写真を印刷できるプリンターを与えられた時と状況が似ているような気がする。
父親は、闘病中の娘をフォローしようとして、なにか興味をもって前向きに毎日を過ごしてもらいたい一心で、カメラを勧めてきたのである。
しかしながら、自分は、カメラには、全くと言っていいほど興味が無かった。だから、カメラをすごく持て余した。
自分の興味を持っているものを学んだり、展開したりしているのであるが、市場に求められているニーズとずれている感がこのところずっとある。
ニーズにこたえるには、根本から考えを立て直せなければいけないのであるが、それが自分にとって興味があるものかどうかが微妙なのである。
いくらスキルを多く持ち合わせていても、市場のニーズとずれていれば、仕事のマッチングは起こらないのである。
柔軟性を失っているのだろうか。
市場調査をもっと行って、ニーズにこたえられる部分の学習が今の自分に必要なのか、悩ましい。
昔は、子供の先を学び伝達するのが役目であったが、我が家の子供たちは、自分を超えて、先の先を歩き始めている。
父親は、何を思って前へ進めていたのであろうか。
そう、何も出来てないのと同等なのではないかと、不安がよぎる。
社会の一員として発信しているばかりではなく、スキルの提供によって換金できなければ、意味がないのではないかと考えてしまう。
少し、言葉に出来たような気がする。
ゴールの見えない闘病生活に疲れを感じているのかもしれない。
毎日、忙しく働いていたならば、忙しくて湧き出てこない贅沢な悩みなのかもしれない。
人の役に立ちたいんだと思う。
私の事を必要と感じていたであろう父親を失って、なにか心にぽかんと穴があいた感じだ。
解放されて自由に泳ぎ疲れて、今の自分を見つめなおしているのかも。
まもなく、父親の新盆である。