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7ポンドの重さと忍耐
子供の頃、ボーリングブームがあった。
実家近くにもボーリング場が2つも建った。
テレビドラマも女子ボーラーが主人公のものもあったりなんかして、猫も杓子もボウリングをする時代だった。
その頃、注目を浴びていたのが、女子プロボーラーの中山律子である。
テレビでもボウリングの試合を中継したり、中山律子は、CMにも登場し、CM曲の「律子さん、律子さん、さわやか律子さん」は流行語となった。
ご多分に漏れず、うちの父親もボウリングにはまる。
昔は、会社でのレクレーションで、ボウリング大会なども開催され、父親は、よく賞をいただいて帰ってくるぐらいの腕前であった。
アジフライは、ボウリングの卓上ゲームに明け暮れた。
この辺から投げると、ストライクになるとか、スピリットが取れるなどと、大人顔負けのボウリングオタクである。
父親は、近くのボウリング場から、不要となったボーリングのピンをいただいてきたが、それはそれは、予想以上の重さであった。
父親は、マイボールとマイシューズを揃えて、休日もボウリングに通った。
まだ、小学生だったアジフライが投げれるボールが無かったので、父親が、7ポンドのマイボールを作ってくれた。
マイシューズも欲しいとねだったが、足はすぐに大きくなるからと、マイシューズは、作ってもらえなかった。
7ポンドのマイボールを持って、父親とボーリングに通うわけであるが、本物のボーリングは、卓上のゲームとは違い、思うように、ピンは倒れなかった。
投げる球、投げる球が、溝掃除のガーターばかりのオンパレードである。
フルネームは忘れたが、女子プロボーラーの並木選手を応援していた。
大きくなってからボウリングに行く機会もあったが、だいたい1ゲームの中ぐらいから、腕がだるくなって、やる気が失せる。
なにしろ、運動音痴も重なって、運動に必要な忍耐というものを持ち合わせていない。
その点、父親は、忍耐の人であった。
父親は、戦後、中学を卒業してから、家計をささえ仕事をしていた。
お給料袋の封を開けずに、そのまま母親に渡していたらしい。
自分の飲み代は、仕事の他に副業をして、稼いでいたそうだ。
結婚してからもお給料の袋の封は開けずに、渡していたという話が、父親の自慢である。
時代がそうさせたのであろうか?
そんな父親を見てきて育った影響か、自分は、一人っ子の任務を果たす為の行動を無意識にしていた。
新卒で就職をする時だって、東京での一人暮らしをあきらめ、結婚する時も両親の近くで暮らせるように相手を選び、両親を看取った。
自由気ままな振りをして、けなげな人生だったなと振り返る。
7ポンドのマイボールに目を輝かせた思いを、自分の子供たちには、与えてあげられているのだろうか?
いただいたサポートで美味しいものを食べて、次のnoteに活かします。