順風満帆だったら、今の自分はいない
もし、自分がエリートだったならば、順風満帆な道を歩んでいたならば、今の自分はいないと思っている事が自分の強みである。
40歳の時、脳の障害の病気を発症し、生活全般の全ての機能を失う。
カーテンを引いたままの暗い部屋で、布団の上で、観ることのないテレビの音だけが鳴り続け、ぼうっとしているだけで、1日が終わる。そんな日々が続いていた。
小さい頃から、家族の一員としてやらねばならぬ事をこなし、将来、家を守り、両親の面倒を見なければいけないと言う重圧の中成長した為、自分一人で物事を解決する癖がついており、大きな壁にぶち当たった時に、誰かに相談する考えも思い浮かばず、ただ一人、大きな壁に挑み、敗れ、壊れてしまったのである。
小さい頃から、成功体験は山ほどあり、自分一人で乗り越えられる自信がみなぎる強い女性に育ったと母親が自慢していたので、私が病気になった時の母親の落胆は大きかった。
高校は、地元では名の知れた公立高校に進学し、理系クラスで学ぶ。
卒業後、ビジネスとして挑んだ服飾専門学校で、技術やセンスだけではなく、見た目、人脈や家柄でも左右される当たり前の大人の世界の実情を初めて知る事となる。
自宅から専門学校へは、片道1時間半かかった。
専門学校で学んだ職柄で就職するなら、通勤片道1時間半は、免れない。自宅を離れて寮に入るか。とも考えたが、思うような職種に恵まれず、断念。理系を生かした就職先へと転向する。
私の時代、高校から就職すると一流企業に就職出来たので、ここでレールから外れる。
しかしながら経験から、結婚してから現在に至るまで、祖母の家に近い都会の賃貸で生活をしている。自分の仕事の基盤の選択肢を広げるためと、子供達の進学、就職の選択肢を広げるため、豊かな環境を手に入れるためである。
その後、結婚をして、すぐに妊娠をしたが、残念な結果となり、次回妊娠したら、妊娠が分かった時から出産するまでの期間、安静にしなければ子供は無理である体質であることが判明する。
産休、育休を経て、再び、復職するという未来は絶たれた。産休で、1年とかを許す企業なんか無いだろう。
マタニティースイミング、マタニティーヨガなんて、夢のまた夢、憧れのマタニティー構想も崩れた。
ここでもレールから外れてしまった。
仕事と女性としての、普通みんなが手に入れているレールである。
でも、挫ける事なく、専門学校の夢を果たすべく転職をし、パタンナーを経験したり、IT企業でプログラミングを経験したり、妊娠前後では、自宅で、通信教育の中学理科の赤ペン先生をしたり、子育て中には、自宅で文字編集の自営を立ち上げたりと、自分でできる精一杯の仕事をした。
心残りだったのは、IT企業での仕事であった。大好きな仕事であったけれど、母親から祖母の介護の手伝いを頼まれ、そろそろ子供も欲しかった事もあり、自分の体質と相談して、泣く泣く退職した事である。
2人目の息子は、4ヶ月検診で異常が疑われ、1歳になるまでリハビリに通った。それはそれは、孤独な戦いであった。この間、自営の仕事を止めていたので、仕事の流れが変わってしまい、外にパートに出る事となる。
短期の仕事が多かったが、自分のスキルを活かし、大手企業をパートながら渡り歩いた。
子供が二人いて、フルで働く。仕事と家事の両立はどうにかなったが、膨れ上がる生活費に追われる毎日であった。
自分さえ頑張ればどうにかなる。と。
長期勤務を考え、パート先を変えた矢先の事。
保育園のお迎えでこんな事が多発した。
ただでさえ、精神的に追い詰められて毎日を回していたのに。
電車の遅延であったり、退社時間を過ぎても来るはずの宅急便屋さんの到着が遅れる事しばしばで、保育園の先生に謝る事態が多発して、すごく悔しかった。
自分の落ち度ではないのに、
そんな生活を続けていたある日、仕事中、左手が痺れて動かなくなった。そして、現在の病気を発症する事となる。
15年の闘病生活の中でのリハビリによって、スキルが再び目覚め、現役の7割まで復活し、念願のパートを復活した。
スキルを発揮し、バリバリと働いていた頃が懐かしく、働く事を夢見ていたのである。
ハンデを公表してのパートであった。
自分のスキルは、自分を守ってくれた。
だが、自分のハンデは目に見えなくて、スキルを持っていた為に、手を差し伸べる対象に当てはまらず、空気のように扱われ、自分のスキルで隙間を埋め続けたが、力つき、3年で幕を閉じた。
ハンデを持ったものが、自分よりスキルを持っていると、かわいそうという対象にならないのか。残り3割の部分で苦しんでいる事を理解してもらえない。
また、その職場は、人の出入りが多過ぎて、日々の環境の変化に追いつけなかったのが、1番のやめた原因であった。
パートをやめたのは、去年の3月。コロナがそろそろ猛威を振るう頃であった。
まもなく1年が過ぎようとしている。
持病を発症して、この病とも長いお付き合いであるが、自分がレールに乗った状態からの発症だったら、今、自分は、この世に存在しているのだろうか?
ただでさえ、闘病生活の中、家族の一員として事をなさなかった事で苦しみ、消えてなくなりたいと思ったぐらいである。
そんな私は、高齢者の父親の好奇心、チャレンジ精神を観察する事により、年齢による事による諦めなども気にするほどの事でも無いこと学び、新たなチャレンジを心がけている現在がある。
溜め込んだスキルは裏切らない。
どんなに逆風が吹いたとしても、ここまできたら、前に進むしか道はない。
今度は、大きな壁にぶち当たったら、「相談」。
一人でなんとかしようと抱え込まないこと。
それを知るには、時間がかかり過ぎているようであるが、これも人生。
自分にとって大切なこと。
それは、自分を信じること。
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