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徒歩と自転車移動の差

昔、自転車生活をしていた時がある。

昔、使い捨てコンタクトレンズをしていた時がある。

お買物も徒歩で行くよりも、自転車の方が早く生活が効率よく動くことは承知である。近視で裸眼よりもコンタクトをすると、視界がパーッと広がって隅々まで見渡せる事も納得がいく解決策である。

しかし、その新しい時間の流れが、大きな負担となるのである。

今日の違和感が、その時と同じ趣であることに気が付く。

ずーっと、noteを書いてきたPCは年代物で、反応鈍く、ごまかしごまかし使用しているのであるが、突如として我が家に現れた最新機器のipad air。

今日は、一人、あーでもない、こーでもないとipad airを使用して、機能を確かめていたのであるが、使用していて息苦しくなった。

ipad airを使用する事で、世界が狭くなって、孤独感が増したのである。

その話を息子福山にしたところ、理解してもらえなくて、自分でもその本質がなんなのか辿って行ったら、自転車とコンタクトレンズにぶちあたったのである。

PCを操作する時、何の苦労も感じずタイピングは息をするごとく、ツイッターなどのSNSをするのも何も苦労は感じない。

しかしながら、ipad airに文字を打ち込むだけでも、いちいち大変で、人差し指を使ってスクロールする作業がかなりやっかいなのである。

アプリを利用したコンテンツもおたくじみて、内側にさらに内側に気持ちが入り込んで、小さく小さくまとまろうとしている様が息苦しくなった。

息子福山が、「ラインを初めて使った時もそういう気分じゃなかった?」とのたまうが、慣れないものを使い始めたからストレスを感じているのではなくて、

ネットをPCで利用する時は、解放感につつまれるのであるが、ipad airでネットを利用すると閉塞感にさいなまれるのである。

なにか使い方が悪いのであろうか!?

昨日は久しぶりに絵を描いて、楽しかったのであるが、そのぶり返しで不安定な気分になっているのかな。

なんか、生活が便利になると、気持ちが不自由になる錯覚におちいる。

日々、静かな風を感じていたいスローペースな生活を好む人間には、効率化は、刺激ある画期的な事なんだな。きっと。

一人だったら全速力で疾走するのは痛快かもしれないが、家族で暮らすという行為は、普遍的な時間の流れの中で、3割ぐらいの気持ちの余裕が無いと、失速してしまうんだろうか。

自分の足で確かめながら生活するのが心地よい。

とりあえず、本日の閉塞感を文字で表せてひと段落。


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