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痛みから学ぶこと

これまで散々痛い目にあってきた。

僕という人間は、痛みを経験することによって何かを学んできたのかもしれない。

たとえば、中学〜高校〜大学でやってきた剣道。

真夏の体育館、熱中症や脱水症状を経て、手のひらや足の裏には何箇所も豆が潰れ、声が枯れ、重い防具と稽古着には汗が染み込んでいる。

意識も遠のきそうになる中で、かかり稽古が延々と続く。

いっそ倒れてしまえば楽になるかもしれない…そんな考えもふと頭をかすめるが、なかなか体は元気で頑張っている。

頭がしんどいと考えている内はまだほんものの辛さじゃない…しんどいと考えられなくなった時こそが本当にしんどい時…そんなことを先輩から教えられた。

学生時代に始めた自転車旅行や、20代半ばで始めたマラソンの中でも似たような状況が多々あった。

そういったシチュエーションから想起されるのは、衣類の汗臭さであったり、夏の強烈な日差しを浴びて暑さで意識が朦朧とする場面であったりもする。

痛みは体への刺激、その刺激が他のいろんな記憶に結びつく。

肉体のみならず、心の痛みだって同じかもしれない。

心が折れそうになるくらい痛い…辛く苦しい痛み。

どんな痛みもたいていは一過性のもの、時間が経てばいずれは消え去っていくものなのだ。

ただ、体には免疫力もあるし、一度痛みを経験しておけば、少しずつ耐えられるようにできているものなのである。

さらには、そういった痛みをひんぱんに経験することで、痛みそのものが快感へと変わってしまうということもあり得るのだろう。

マゾヒスティックなまでに体を酷使して、体に痛みを与え続けなければ生きていけない、パンチドランカーとなったボクサーのような、そんな人間もひょっとしたらいるのかもしれない。

痛くても死なん…そういう考え方もある。

限界を感じているのは頭だけ…そういう風に考えるなら、人間の体に限界はないのかもしれない。

辛く苦しい、痛みを伴う経験は人生では少ない方がいい…普通ならそう思うものだけど、そんな経験をひんぱんにしていくと刺激なしでは生きていけない刺激難民になるのだろうか。

ウルトラマラソンなどでロキ○ニンなどの痛みを抑える鎮痛剤を常用している方もおられるが、飲めば飲むほど効かなくなるし、胃を荒らす原因にもなる。以前は、その手の薬は医者の処方箋がなければもらえない薬ではなかったか?

生きていれば辛いことや苦しいことがあるのが当然。それを受け入れるのと同じで、走っていれば痛みも当然起こり得る。それを素直に受け入れるのが自然なことなのではないかと思わされる。「痛みとは走ることのオプション」だと考えればいい。

たかが「痛み」、されど「痛み」。いろいろと考えるべき余地の残されたテーマである。


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