自分語り

せっかく始めたnoteなのに、しばらくあいてしまった…

いままでほぼ通勤途中にスマホに書き込んでいた。この前も…書いたー!と、達成感を味わったと同時に、ポチッと…気づいたら手元が狂って完全消去されていた…涙。
その後書くためのスイッチがすっかりオフに....

そしてこの休日でやっとまたスイッチが入った。

「自分語り」

最近、何度もこのテーマが頭に浮かぶ。

自分語りは大切。                          特にエンパスには大切、とひしひし感じる。

自分を語るには自分を知らなくてはならない。知ろうとしなくてはならない。そしてその作業には終わりがない。
ゴールはないし正解もない。

この作業がなぜエンパスに大切か?

自分語りのエッセンス は、とにかく自分に目を向けるという作業そのもの。
だから、周りの気持ちや感情を自分に取り込んでしまうばかりで、自分自身に意識が行きにくいエンパスに、まさに必要なことなのだ。

エンパスが自分語りをするとなると、変な癖というか、不安につながることがあるかもしれない。
自分のことを中心に考えて語り始めたら、周りのことを理解できなくなって自分勝手になるんじゃないか?と。

自分語りは安全だし、自分勝手にはならない。
自分を理解して語ることは、他者のよりよい理解にもつながる。

エンパスの人は、他者理解の大部分を共感能力に頼っているというか、依存しがちなところもあるかもしれない。
強い共感能力は、他人の理解には最強!な一面が確かにある。相手の感情や感覚をとらえられるなら、その人を理解するには最短ルートしかもなかなか正確なのだ。エンパスの人はそれを知っている。

でもそれには副作用がある。                     共感能力を使っているとき、自分自身の感覚や感情は後回しになっているということだ。
だから、この能力をうまく使えるようになるには、自分を語って理解をし続けるという行為でメンテナンスをすることが必要なのだ。

エンパスの人が、自分語りが出来るといいな、とか、気になるな、と思っている時点で、おそらく自分語りの機会は足りてない。          ちょっと前の私がそうだった。

そして、足りてないことが長く続いているのなら、おそらく幼い頃からあまりその機会かなかっただろうと思われる。自分語りが習慣になるような環境で育たなかったんだと思う。
家庭環境はもちろん、学校でも。日本の教育システムは、自分を語る機会提供はかなり少ない。

もちろんこれは私自身のことでもある。

日頃から自分語りをしていたなら、語れる環境にいたなら、ここまでの超エンパス になっていなかった気もする。
エンパス として生き続ける私にとって、小さい頃の環境の影響はとても大きかった。

今度、育ちの影響についても綴りたい。

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