見出し画像

「つくね小隊、応答せよ、」(十六)

早太郎は、かろうじて狒狒の倒す木々を避けています。

怪我をした後ろ足を痛そうに引きずり、右へ、左へ跳んでいるのです。

けれど、懸命によけて逃げている早太郎を嘲笑うかのように、こぶしほどの大きさの石をぶつけて、狒狒は遊んでいます。

早太郎は狒狒に飛びかかり、噛みつこうとしますが、いとも簡単に狒狒に身をかわされ、叩き落とされ、蹴られ、爪で身体を裂かれます。

狒狒は、嗤っています。

そして早太郎は、傷だらけになってゆきました。

それでも、木々や石や狒狒の攻撃をよけながら、早太郎は狒狒に飛びかかります。何度も何度も、そうやって狒狒に飛びかかってゆきました。


やがて、早太郎は、立っているのがやっとの状態になり、震えながら、身体を支えています。

狒狒は、そんな早太郎に、にこにこと笑いかけながら、突然空高く蹴りあげました。

じゃりどむさりっ

茂みのなかに、早太郎が落ちます。





その茂みのすぐそばには、娘が震えながら膝を抱えていました。

娘は、落ちてきたものが狒狒ではなく傷だらけの早太郎だと気づくと、静かに駆け寄って、横たわる早太郎にしがみつきました。

娘は、なにか言いたそうに口を開きますが、息が出てくるだけで何もしゃべりません。どうやら、今宵起こったさまざまな恐怖で、声がでなくなっているようです。

早太郎はゆっくりと起き上がり、自分にしがみつく娘をふりほどきます。そして鼻先で、娘を茂みに押し込み、隠しました。

そして振り返り、傷だらけの早太郎は、狒狒の姿を探します。




はやたろういまなにかここにかくさなかったあああああ?




茂みの中を覗き込みながら、狒狒が早太郎に、三日月のように笑いかけました。どうやら、娘をみられてしまったようです。

早太郎はゆっくりと振り返り、狒狒の喉元に食らいつきました。

しかし、距離が足りず、狒狒の胸の毛に噛みつけただけでした。

狒狒は早太郎を蝿を追い払うように振り払い、茂みのなかに顔を突っ込んで鼻唄を歌いながら「なにか」を探しています。早太郎は狒狒の足に噛みつきましたが、別の足で腹を踏まれ、血を吐きました。



ああああああああああはやたろおおおうこんなごちそうをここにかくしてたんだねええいじわるだなああああ


狒狒は、娘の髪の毛を掴み、持ち上げました。

娘は声が出ず、息だけで悲鳴をあげています。

早太郎はまた、狒狒の足に噛みつきました。

狒狒は早太郎を見下ろし、仏のように微笑み、早太郎を足で木に叩きつけました。早太郎は咳き込み、あたりに血が飛び散ります。

狒狒は境内の真ん中まで歩いて行き、髪の毛をつかんでぶら下げたままの娘を優しい笑顔で眺めています。



「娘を放せっ」



そう叫び、茂みから出てきた弁存が狒狒のそばに駆け寄って来ました。狒狒は首をかしげて弁存を見つめ、腕を振り、髪の毛を掴んだまま娘の身体を弁存に叩きつけました。娘が痛みと恐怖で悲鳴をあげ、娘の膝が弁存の胸と喉に当たり、弁存は息ができなくなり、ひざまずきました。

そして弁存に頭ほどの大きさほどの石を投げつけます。石は弁存の胸に当たり、弁存は仰向けに倒れます。


星空が流れ星のように流れて見えます。




ねえねえぼうず

おまえのあのへんなうたうたったら

そのときはすぐむすめをじょうぶつさせてあげるからね

ひひひひひいひひひひひひひひいひひひひひ

はやたろうも

ぼうずも

すこしでもうごいたら

このむすめがどうなるかわかるよね



弁存は、胸をおさえながら、目だけで早太郎を見ました。身体中、土や血で汚れ、息をしているのかどうかもわかりません。

娘の悲鳴が聞こえます。息を吐き出すだけの、空気がかすれるだけの、声にならない悲鳴。誰にも聞こえず、どこへも届かない悲鳴。








「み仏は、苦しみの中にあるものを見放さぬ」

狒狒たちに殺された娘に、自分が言った言葉を、弁存は思い出しました。

弁存は、立ち上がりました。

狒狒が、弁存を見据えてにやりと嗤います。



あああああ

うごいちゃったねえ

むすめをたべてほしいんだねえ

わか   ぎゅしゅごっ


狒狒の後ろから、変な音がしました。





「…そん…そん娘ば…は…はなせ…こ、こん化けもんが…は、はなせ!」




弁存は息ができぬまま、胸をおさえ、狒狒の後ろをみました。


月の逆光になって誰なのかわかりませんが、そこにはふたり立ち、ふたりで、一本の長い棒のようなものを握っています。


狒狒は首だけで振り返り、言いました。



なにおまえたち

なにがしたいの



狒狒のうしろには、村人の夫婦が、恐怖にまみれた顔で立っており、そのふたりの両手には一本の竹槍が握られていました。

竹槍は、狒狒の背中の肩甲骨のあたりにほんの少し刺さっています。



弁存は、夫婦の顔に、見覚えがありました。

昨年殺された娘の、両親です。

父親が言いました。

「…カヨの墓に、手ぇ合わせてもよぉ、お念仏唱えてもよぉ、目があわせらんねえんだよぉ、娘をおめえみたいなやつにさしだして、なんにもしねえで、それで手ぇあわせても、…娘の顔も、思い出せねぇんだよおおお、村のために娘を差し出したおらたちが、手なんか合わせられるわけねえんだっ!!!!

…は、墓には、そ、そこにはなんにもねえ!土しかねえ!おらたちの娘は、土でねえ!…こ、こんな思いをする人間がずっとずっと続くんだば、おらたちで終わりにする!そん娘ぇばあ!!!はよ!はなせっ!」



両親は嗚咽を漏らし、涙と鼻水にまみれ、がたがたと震え、しかしそれでも、竹槍はしっかり握っています。



狒狒は、娘を離しました。娘が、ぼとりと地面に落ちます。

そして狒狒は右手を大きくふりかぶり、背後の夫婦を振り返りざまに切り裂こうとします。

ぐがしゅああああんっっ!!!!!

狒狒の右手の爪に、錫杖があたり、止まりました。

むんじゅうううううううううううう

右手の爪が煙をあげて溶けてゆきます。

息を大きく吸い、弁存が狒狒に大声で言いました。

「おぬしらも苦しかっただろう…そしてまた彼らもおなじように、苦しいのだ…娘を失って終わりではない…彼らの苦しみには、終わりがないのだ。だから、もう、終わりに、しよう…」



それは、ほとんど懇願に近い言葉でした。

弁存は、血を吐きます。

肺が一部、潰れているようです。

弁存の握る錫杖は、狒狒の右手を受け、ぎちぎちと震えております。狒狒も弁存も、力を抜いていないのです。

狒狒はなにも言わずに一度吠えると、左の拳を振り上げ、弁存に叩き落としました。

勢いよく弁存の編笠に当たった拳は砕け、狒狒は苦しそうに雄叫びをあげます。

弁存は悲しそうな顔をして、狒狒の右手の爪を払い、狒狒の右足に錫杖を突き立てました。

狒狒は残った左足で弁存を蹴りますが、次は左足が砕け、

ぎいいいいやああああああああおうううう!!!!

と悲鳴をあげます。

残った右手で錫杖を引き抜こうとしますが、手のひらが焼け、指が落ち、錫杖を握ることはできません。

歯で錫杖を噛み、引き抜こうとすると、砂の山に水をかけるように、歯がほろほろと抜け落ちてゆきました。



錫杖が抜けずに、触れることができないことが分かると、狒狒は暴れまわりました。

暴れながら、狒狒は、泣いています。

泣いて、暴れています。

まるでそれは、乳が飲めずに泣き叫ぶ、餓えた赤ん坊のようでした。

狒狒が泣き

弁存が泣き

両親が泣いています




狒狒は、石畳を両手の手首でひとつ拾い、自分の頭上に持ち上げました。

そしてそれを勢いよく、足元の娘に落とそうとします。

娘は気を失っています。

弁存は血をぼたぼたと吐き、一歩も動けません。

夫婦は、泣き叫びながら竹槍をもっと深く突き刺そうとしますが、狒狒の血が竹槍をつたい、ぬるぬるとしていて突き刺すことができません。

「やめれぇええええええ!やめてくれえええええええ!たのむうううううぅ!!!やめれえええええええええ!」


夫婦が絶叫すると、狒狒は全身の力を込め、石を娘へ叩 しゅぱっん


がごおおおおおおおおおおおおおおんっ

どばあっ ぐりゅさんっ




境内に、肉が裂ける音が響きます。

とても美しい、静かな月夜です。

土を掘り返された境内。

なぎ倒された木々。

砕けた竹筒。

血だらけの土や石。

半壊した本殿。

あちらこちらに散らばる石畳。

首のない狒狒。

ちいさな狒狒の灰。

胸から、竹槍の突き出た狒狒。

狒狒の手から石が力なく離れ、石は娘のそばに どぐしゅんっ と落ちました。

夫婦は、自分たちの手を見て、お互いの顔を見合わせ、そして、竹を見ました。自分達は力が入らず、ただ握っていただけなのに、急に素早く竹が動いたのです。竹の根本を見ました。

竹の根本には、早太郎が倒れています。早太郎が竹の根本に体当たりをして、狒狒の胸に竹を突き刺したのです。早太郎は、腹のあたりが血だらけになっています。

狒狒は膝を落とし、ゆっくりと振り返りました。

息の止まった狒狒の赤い目と、乱れた呼吸をしている倒れた早太郎の青い目が、見つめ合います。


ぷしゅうわああああああああああああああああああああああ


狒狒の胸から、血が吹き上がり、赤い血が降り始めました。


狒狒の赤い目が、灰色になってゆきます。


夫婦は、血の降る夜空を見上げながら、娘の名を叫びました。


狒狒の体から力が抜け、洗った着物のように、立ったまま動かなくなりました。


弁存は意識を失いました。


夫婦が、助かった村の娘を抱きしめて、夜空に向かって娘の名前を叫び続ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ




B29が、四人の頭上を通りすぎてゆく。

数十機ほどの編隊を組み、護衛機は数機ほど。


日本の戦闘機はB29の高度まで飛べない。


だからB29は、上空まで上昇し、日本に行き、上空から爆弾を捨て、またここまで戻ってくる。護衛機をつける必要がないのだ。

四人は、森の木々の隙間から見えるB29を黙って見上げる。


清水は汗を拭う。

「翌朝、弁存は村人たちに起こされました。

みな、涙を流しながら、傷だらけの弁存に礼を言ったそうです。

そして弁存は、早太郎がいないことに気づくんです。そして村人たちも、早太郎の姿は見ていないと言うんです。弁存はその村で治療を受け、狒狒を倒したのは早太郎であると村人たちに説明をしました。


そして療養中、弁存は思いました。

まさか、早太郎はあの傷のまま、光前寺に帰ったのではないか。

弁存は、怪我も完全に癒えぬまま、急いで、信州へまた旅立ちました」

清水が、なぜだか、なんとも言えない顔をして目を泳がせている。

「おい、どうした、続けろ、よ」

秋月が、ちいさな声で言い、咳き込んで血を吐いた。

清水は、渡邉にすがるような目をなげかけたが、渡邉はなにも言わずにうつむく。仲村は、悲痛な面持ちで、秋月から目をそらしている。



「し、静岡から駒ヶ根に向かう途中に、市田って地域があります。あの、ほ、干し柿で有名な地域です。

傷ついた早太郎は信州までの道すがら、温泉で傷をいやしながら、市田で干し柿をたくさん買って、光前寺に戻ったらしいです。

弁存が、光前寺にたどり着くと、傷の癒えた早太郎が元気に寺の中をかけまわり、老僧が干し柿を食べながら、嬉しそうに眺めていたそうです。

弁存は、早太郎の働きに大変感謝して、大般若経というお経を写経し、光前寺に納めました。

そしていまでも、静岡の見附村の人たちは、この光前寺にお礼の参拝を欠かさないそうです…

めでたし…

…めでたし」


ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ



またB29の編隊が、日本へ飛び立ってゆく。

「助けたんだよな?」

秋月が、B29を見上げながら、清水に尋ねた。

「え?」

「…早太郎は、娘を、村を、救ったんだよな」



「…はい、救いました」




秋月は、なんどもなんども笑顔で頷いて、涙をひとつ流す。




「清水一等兵、頼み、を聞いてくれて、ありがた、かった」

清水は直立不動の姿勢になり、秋月に敬礼する。すると仲村もあわてて立ち上がり、敬礼した。



「渡邉、たのみがある」


秋月は、渡邉をにらみつけるようにして言う。


「なんだ」


「殺してくれ」


仲村と清水は、俯く。


渡邉は、答えた。


「ああ。わかった」

もしサポートして頂けた暁には、 幸せな酒を買ってあなたの幸せを願って幸せに酒を飲みます。