キセツハナクナラナイ
昔、大阪のバーで出会ったイギリス出身の黒人の女の子が、「世界で1番ヘルシーな料理は、日本食よ。油分も少なくて、ソースをかけたりしない。薄味だし。」と、言った。
しばらく考えてみたあと、あるいはそうなのかもしれないなぁ、と思い至った。南国の方は甘い味付けになりがちだし、北過ぎると青菜が栽培出来ず、芋類が主食になる。
青菜も米も野菜も果物も、麦も蕎麦も栽培できて、濃い味付けでなくても食材の色々な味が楽しめる。それは、あらゆる食材が栽培出来る気候風土に寄るところがあるかも。
子供の頃は、菜の花の美味しさは分からなかった。生姜の辛みは無意味な味だったし、あさり汁よりも、チーズバーガーの方が美味しいと感じた。そんな僕は、田舎に引っ越してきて、あらゆる野菜を食べた。
夏には苦瓜や胡瓜、トマト。
秋には茄子。
冬には大根白菜かぼちゃ。
春には山菜や青菜やキャベツ。
夏のきゅうりは、ほどよく体を冷やしたし、秋の焼き茄子は塩としょうがを掛けて、甘くとろけた。山菜の、タラの芽の苦味は、僕の1番の好物になったし、今では漬物がないと食卓が寂しく感じてしまう。野沢菜漬けとお茶漬けがあれば、僕にとっては贅沢なご馳走に感じる。
祖父は、僕が物心ついた頃から、朝晩自宅の神棚に二礼二拍手一礼していた。今は骨になっているから、何をお参りしていたのか、全くわからないけれど、おそらく、ただただ感謝していたんだろうと思う。おそらく、そんな気がする。
日本人は縄文の時代、大陸から流れ流れて、やがてこの島国に閉じ込められた。獣を捕まえたり、どんぐりを拾ったりして、その日暮らしだった。だから縄文の時代から、祈りがあったと、ボクは思う。縄文土器から、感謝と祈りの意志を感じる。山に、火に、水に、土に空に祈っていたであろう事が想像出来る。
それは、二礼二拍手一礼していた祖父も、同じなのかもしれない。祖父の口癖は、
「なんでも当たり前やら思ったらいかんとばい。」
だった。
どんぐりは当たり前に実らない。ほかの動物が先に食べるし、肉になってくれる動物も、簡単には姿を見せない。太古の昔、「当たり前」はまったく存在しなかった。
日本には各地にご当地の野菜がある。その土地でしか取れない野菜や果物もある。薄い味付けの、それらの野菜を食べていると、
いま
ここ
じぶん
を、感じる。
季節と、土地と、それを味わう僕。
日本人の料理や、花見や、夏祭りや、初詣には、今ここを感じるための仕掛けが沢山あるなぁ、と思う。当たり前じゃないからこそ、今や季節を感じる事に、感慨深くなる。
さっきニュースで、気象庁が生物季節観測を止める、ということを知った。動物の個体数が減少したため、鶯や蛍やツバメの観測が難しくなってきたのだそうだ。
季節そのものは無くならないけれど、日本のニュースからは、だんだん季節感のある知らせが少なくなって行くのだろう。
ほんの少し、寂しい。
けれど、やっぱり、日本人がちいさな当たり前じゃない事に気づける限り、季節はなくならない。
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