これからの笠地蔵について話そう
noteのうわの空さんが初めての音声配信で、笠地蔵の俳句の読み上げをしてたんだけど、その読上げを聞きながら、ぼんやりと笠地蔵について考えてみた。
古事記の中では、人類の誕生について描写はない。神が作り給うたみたいな記述はなく、突然、ヒトとして登場する。まるで他の生き物との区別なく、「うん、まぁ、そりゃいるよね。そりゃ。」みたいな感じで、いる。
ここから考えられることは、当時はヒトは自然の一部であり、他の動物となにか違いがあるわけでもないよー、みたいな思想があったということなのかなぁ、と考えてみる。
ところで、江戸末期、明治の頃、日本を訪れた外国人たちの手記を集めた本が手元にあって、スキで読んでいる。その中で江戸の庶民たちが、キリスト教に触れた時に大変驚いていたという記述があった。
人間は神が、自分に似せて作ったのだよと、宣教師が言うと、
えっ!!!!???
まじで??!
人間って特別なの?!
まじ?!
という反応が返ってきたという。
昔の日本人、とくに庶民にとっては、私らも動物だよな、そりゃ。という感覚だったのかもしれない。水も汲みに行かねばならぬし、電子レンジがあるわけでもない。自力でいろいろせねばならない。
だから、今の日本人が感じる昔話と、昔のヒトが感じる昔話は、もしかしたら捉え方がまったく違うかもなぁ、と、思った。
うわちゃんの声を聞きながら。
だから!突然だけど、笠地蔵を謎の視点で見つめてみたっ!
あらすじをおさらいしてみると、笠地蔵は、大雪の大晦日の出来事。これじゃあ年を越すこともできないほどに貧しい老夫婦がいる。ようするに、餅も喰えないよ。という家庭。じさまが作った傘を街へ売りに行く。でも売れずにじさまは帰ってくる。帰りに、雪の中寒そうにしている地蔵六体に売れなかった傘をかぶせてあげる。六体目は傘がなかったので、自分の被っていたてぬぐいをかぶせてあげる。
帰ってばあさんに、「じいさんや、傘は売れましたか?」と聞かれたけれど、「いや、いっこもうれんやったよ。地蔵にかぶせたったわ。」というと、「そりゃいいことをしましたね!」と、褒められる。
夜になると、不気味な、どすこいどすどすどちゃくそぼーんという音がして、恐る恐る外を見てみると、米や野菜や金銀財宝が盛りだくさんなのでござる、やったわい!
というあらすじ。
普通に見れば、良いことをすると良いことがある。という流れ。
いやまぁ、じいさんいいことしたのかもしれないけど、すごいのはばあさんもすごい。もはや年を越せないかもしれないのに、そりゃあいいことをしましたねもあったもんじゃない。年寄りになるとものの道理もわからぬようになるのか。と、夏目漱石の「坊っちゃん」なら言うのかもしれない。
そこで思うのである。あれ、これってもしかすると、精神世界のことを表現していたりするんじゃないだろうか。ということをね!
実際、年が越せぬ、食べ物がない、という状態でも、他者に対して施しの心を持つじさまは、それだけでとても幸せなじさまだと思う。彼は返礼など一切をもとめておらず、布施の心で、自分の売り物である笠を地蔵に差し上げるのである。ここで重要なのが、施す、ということ。逆を言えば、ものがなければ、施せない。じさまとはいえ、街へものを売りに行くだけの体力と、ものを作る体力、知力、経験がある。じさまはモッテルのである。モッテルから、施せるのである。
そしてもし、フリーザが、ばさまの立場ならば、じさまに対してこのように言い放つだろうと思う。
おやおやおやおや、私の聞き違いでしょうか。おじいさん、笠を路傍の石像にすべて被せてきてしまったなんて、聞き違いですよねぇ。おじいさん、もう一度だけ私に聴かせてほしいのですよ。私達の大事な戦力である笠を、どのように利用したのか。
あらあら、どうやら私の聞き違いじゃなかったようですねぇ。本当にこのおじいさんは、どうかしてしまったんですかねぇ?おじいさん、大事な笠をそんな無駄なことに使うなんて、覚悟はいいですね?じゃあ、さようなら ちゅどんっ
フリーザでなくても、夫婦喧嘩になる事案だと思う。給料全額を、街で困っている女子高生にあげてきた。というようなレベルなのだ。そんな、普通怒るところを、あのばさまは、じさまを承認している。他責にせず、期待せず、執着せず、相手を認めている。
と、なると、これは、ただの昔話じゃなくて、これは、自己啓発なのかもしれない。じさまとばさまは、ZOOMとかで一時間2万円とかで、個人セッションを販売出来るレベルなのかもしれない。
もう、あの、適当にまとめますけど、笠地蔵まじで風の時代やね!
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