渡緬記者長井健司氏の墓/赴緬記者長井健司先生墓

ミャンマーの民主化運動と言えば、1988年の8888民主化運動が有名ですが、2007年のサフラン革命においては、愛媛県今治市出身の長井記者がヤンゴンで取材中に軍の兵士によって射殺され、その後、長い年月を経て、カメラが遺族の手元に返還されたというニュースは記憶になお新しいものがあります。2024年1月、約7年ぶりとなった帰省時に、同じ愛媛県東予地方出身である長井記者の墓を訪ねてみました。

当日は晴天であり、空気は瀬戸内海の対岸までよく見渡せるほど澄んでいました。先に、四国八十八箇所霊場第五十四番札所延命寺を訪れ、市営墓地への道順を教えていただきました。折角ですので、寺の境内を廻ってみると、中国大陸系百済帰化渡来人の子孫であり、飛鳥時代から奈良時代にかけて、社会事業等の分野において功績のあった行基菩薩の報恩供養塔がありました。市営墓地にやって来ると、敷地面積が相当に広く、現場で何人かに尋ねてみたところ、皆さん、あまりご存じないようで、それでも最終的に辿り着くことができました。

長井記者が亡くなられた2007年9月と言えば、私は一時期、歯を磨くにも寝転がる必要があるほどに体調を崩していた大手化学プラントを辞め、今治市の対岸に位置する広島県福山市に転居してまだ間もない頃でした。当時は、体調不良により、考える余裕はあまりありませんでしたが、福山を選んだ理由については、やはり、日本の平和運動の総本山である広島になおこだわりがあったことが一つとして挙げられると思います。翌年2008年5月、久々に船に乗って旅行に訪れた上海で、滞在予定が残り二日となったときに、時間が余ったので、人材会社を覗いてみると、急に仕事が決まり、帰り着いた神戸港にて四川大地震の一報に接し、ビザを取得して、翌6月から上海で働き始めました。暫くしてから、週末に現地の会計学校に通い始め、その後、改革開放の初期から現在も存続している上海魯迅公園日本語コーナーに参加するようになると、当然ながら、2007年長井記者の一件や地震発生から一年後に訪れた四川省阿壩州汶川県の復興状況、2009年コーカン八八事件、そして、国務院温家宝総理を筆頭に政治体制改革が叫ばれていたという時代背景もあり、限定的であるとはいえ、輝いて見えた隣国ミャンマーの民主化進展状況等に言及したこともございました。

思い返せば、上海に渡る少し前の2008年当時、福山にて映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を鑑賞する機会があり、中国社会はまさにあの時代にあると言及したこともありましたが、急激な変化を特徴とする中国社会は、高度経済成長期が過ぎ去り、すでに転換点に達したようです。2022年の上海ロックダウン明け以降、弊社も基本的にゼロ収入に近い状態になっています。2023年10月の1027作戦以降、ミャンマー情勢もまた転換点に達したようです。いずれにせよ、市民の暮らしはなかなか大変ですね。隣国ミャンマーに平和が一刻も早く訪れることを願っています。

最後に付け加えると、実は、中国でも有名な歌手で僧侶の薬師寺寛邦氏ゆかりの海禅寺が市営墓地の近くにあるようですが、今回、運転を担当した母の機嫌が途中からまたよくなくて、訪れることができず、残念でした。特に用事がなければ、やはり帰省しない方がよいようです。

#長井健司 #ミャンマー #ビルマ #民主化 #愛媛 #今治 #延命寺 #行基 #緬甸 #爱媛 #长井健司 #缅甸 #Myanmar #미얀마 #KenjiNagai

說起緬甸民主運動,最有名的是1988年「8888民主運動」,而在2007年的番紅花革命期間,出生於日本四國島愛媛縣東予地區今治市的長井先生在緬甸仰光拍攝街頭抗爭行動時被緬軍士兵槍殺,多年後,長井先生曾經使用的攝影機返還給家人這一新聞報導迄今仍記憶猶新。時隔約7年,臨時返回家鄉的2024年1月,同樣出生於日本四國島愛媛縣東予地區的我探訪了長井先生的墓。

當天,天氣晴朗,空氣相當清澈,可以眺望到瀨戶內海的對岸。首先,我訪問了日本四國島「88所寺院」中的第54所寺院延命寺,並從寺務工作人員那裡得到了前往市立墓園的路線。順便我轉了一圈,發現在寺院裡有一座供奉行基菩薩的報恩供養塔。行基菩薩是中國大陸系朝鮮百濟國歸化渡來人的後裔,從日本古代飛鳥時代至奈良時代在社會事業等領域取得了巨大的成就。到了市立墓園,就發現墓園的面積很大,詢問幾位現場人員,結果他們也不太了解,還好我最終還是找到了長井先生的墓。

說起長井先生遇害的2007年9月,當時是我離開一間大型化工廠,搬到了今治市的對岸廣島縣福山市後不久的時候。當時,我的身體狀況不佳,有時候連刷牙都得躺著,就因為如此,我沒有太多思考為何選擇福山這座城市的餘地,但我覺得我選擇福山的原因之一是因為我還是對日本和平運動的總部廣島仍然抱有一些希望。次年2008年5月,我時隔多年坐船回到上海旅遊,剩下最後兩天的時候,因為有空,去探訪了一間人力資源公司,之後馬上被安排面試和工作交接,然後抵達神戶港時,我接到了四川汶川地震的消息,次月拿到簽證後,開始在上海工作。過了一段時間後,每週末開始到會計學校上學,後來也開始參加自改革開放初期以來存續至今的上海魯迅公園日語角活動。當然,在時任國務院總理溫家寶先生帶頭提倡政治體制改革的時代背景之下,我也有時候在那裡提到2007年長井先生事件、地震發生一年後在現場看到的四川省阿壩州汶川縣的重建情況、2009年緬甸果敢八八事件、以及雖然有局限性,帶有耀眼光環的鄰國緬甸民主化進程等等。

回想2008年離開日本之前,在福山有機會觀看一部日本電影《ALWAYS 三丁目の夕日》,隨後我確實提到過中國社會正處於那個年代。但以變化速度極快為特徵的中國社會,已經過了高速經濟成長期,似乎迎來了轉折點。2022年上海解封以來,本公司的營業收入狀況陷入幾乎接近為零的狀態。2023年10月的1027行動之後,緬甸局勢也同樣迎來了轉折點。不管怎麼樣,人民過得真不容易。希望鄰國緬甸盡快迎來和平。

最後我想提到在中國大陸相當有名的僧侶歌手,他名叫藥師寺寬邦,跟他有關的海禪寺大概就在市立墓園附近。但很可惜這次負責開車帶我去今治市的我母親又開始發脾氣,就因為如此錯過了探訪該寺院的機會,真讓人感到失望。還是一句話,非必要盡量不要回家鄉。