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【旅】ミャンマーそろり旅5(最終回)/僧院の小坊主たち

ヤンゴン郊外の高級住宅開発地の真ん中に、時代に取り残されるようにして、「キャンゲン・マンクス・エデュケーション・センター」が色あせて建っていた。経済的理由などで、公的な学校で教育を受けられない子どもたちを受け入れている。

近隣から通ってくる子どももいるが、ミャンマー各地の村々からはるばるやってくる子も多く、大半は少年見習僧として共同生活を営み、エンジ色の法衣姿、くりくりの頭をしている。

センターの一日は早朝の托鉢から始まる。
指導者に促されて、町中を練り歩く。
仏教に対する信仰心が希薄になりつつある日本と違い、
ミャンマーの人々は仏教を篤く信仰し、
僧はだれであろうと敬いの対象になる。
だから、5歳、6歳の少年僧が托鉢しても、
寄進はありがたいほどたくさん集まる。
こうした経験から、彼らは仏陀の偉大さと、信仰の尊さを知る。
そこらの学校では教えてくれないことだ。

托鉢に続き、午前の学習が終わると、昼食と昼休み。
これが2時間ほどもある。

走り回る少年僧たちについて講堂に入る。
ふるさとの村から持参した私物一式が、行李のような長箱に入れられ、壁に沿って並んでいる。その付近が共同生活唯一のプライベート空間になる。

先の丸い鉛筆を取り出し、わら半紙に何かを書いていく少年。
丸めたゴザを解き、昼寝に突入する少年。
敷地の庭にできた5、6人の輪の中からは、
ピコピコピーンとゲーム機の電子音が聞こえる。

目の前に立ちはだかった一人の少年は、ヨーロッパのサッカー選手の写真が1面に載った新聞を誇らしげに見せてくれた。サッカーは世界中の少年共通のあこがれである。

思い思いのスタイルで休み時間が通り過ぎていった。

将来の選択肢は、必ずしも仏僧になることを押し付けられない。
社会に出て、店を持つのもよし、タクシーの運転手でもいいし、ホテルマンでも問題ない。

生きるのに必要な最低限の知識と礼儀、工夫とヒントを、このセンターが与えてくれるのだ。

ミャンマーには、高位にある僧が無償の奉仕で行う、
このような教育施設が各地にあるという。

この国では「時間に追われる」などという言葉は、その概念すらない。
時間は考えるものではなく、感じるもの、雲のように流れていくものなのだ。人はそのスピードにそっと足並みをそろえればいい。

慈愛を知った少年たちは、その笑顔のまま、巣立っていく。

/了/

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