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No.969 ディルタイ哲学をかじりながら、フォーカシング指向心理療法を深めてみる...


今私は 哲学者 ディルタイの「歴史と生の哲学」を読んでいる。

ディルタイはフォーカシング指向心理療法の創始者ユージン.T.ジェンドリン博士が影響を受けた哲学者である。

ディルタイ哲学がどのようなものなのかを理解することで、ジェンドリン博士がどうして、フォーカシングという概念を作り上げたのか、わかるだろうと思い、今読んでいる。

そして、何となくではあるがわかった気がする。

本書によれば、
ディルタイ哲学の本来的哲学衝動は、「生を生自身から理解すること」である。
そして、ディルタイの出発点はすべてを含んだ生であり、生とは我々に最も直接的に知られている一つの根源的な事実であると言う。

従来、人は世界から出発して生を把握せんことを企てた。しかし、「生の解釈から発して世界に至る道があるのみである。」という彼の言葉こそは、学の哲学に反して、生の哲学を立てんとする彼の根本意力である。

ディルタイは生の構造を、「生とは我々に最も直接的に知られている一つの根源的な事実である。」と言う。

ディルタイは概念的な把握でなく、内から生そのものを認め、自知する仕方を「体験」と名づけている。

即ち体験とは具体的に内的に感じられた生の第一契機である。

生は常に生動的であり、発展的である。

そこで生を具体的に体験するにはどうするかという問題が起こる。

ディルタイは生を体験し、生を意識に高める拠り所として、生に存する秩序、もしくは生の傾向と言うものを挙げている。

換言すれば、生はただ単に転変流転する事実ではなく、むしろこれを体験し得るための組織構造を所持していると言う。

彼の言う生関連とか、生の構造連関とか言うものはこうした生の具体的内面的組織に他ならない。

即ち生の構造連関とは「生そのもののうちに含まれる概念」であって、我々の思惟がそこに持ち込んだり、つけ加えたりする概念ではない。

構造連関が絶えず働き、又絶えず生の制約となっていればこそ、我々の生は分離されたり、無方向になったりするものではなく、かえって全体としての一つの機能又は動作となる。

従って、体験とはこうした生の構造を自知し内認することに他ならない。
言わば、生の内奥へぐんぐん這入って行くことなのだと言う。

体験は直接的具体的実在そのままである。
そして、そのままであるが故に常に生動性と清新性を持っている。

しかし、生動性を持ち清新性にあるということは常に動いているということになろう。

即ち生の内面に向って不断に前進しているのである。

もし生の体験が常に流動しているとすれば、我々はこれを見ることも把握することも出来ないことになる。

そのために、生の第二の契機として、「表現」が出て来る。

「体験」が生の内化であるのに反して、「表現」は生の外化であると言う。

元来、生はその環境との交互作用においてあり、常に何ものかによって阻まれ何ものかと交渉しているものである。

従って生は内に向かうと同時に絶えず外に向かわねばならない。

のみならず、「体験」は外化されてある具体的表現に達する時一応の満足と固定化とを得る。

換言すれば、内にあって不断に進展している生の不明なる核心は客観化され表現化されることによって自己の目的を達すると同時に、歴史的存在となる。

ディルタイのいう生の客観化とはかかる生の外形化、表現化に外ならない。  

さて、生は「体験」において内向し、「表現」において外向したが、内と外とに分離したままであってはならないことは明らかだろう。

両者を統一し、両者の橋渡しとなるものが無ければならないのだ。

そして、それが「理解」である。

何故なら理解とは外的感覚的なるものから内的精神的なるものへと帰入する作用である。

換言すれば、内的なる「体験」は自己を「表現」によって外化し、外化した生は「理解」によって再び内化されるのである。
かくして【体験―表現―理解】の関係は無限に発展して止まない。

【体験―表現―理解】の過程は、まさしく「人類を抱括するところの関連」であり、「生活統一体の交互作用」である。

そして、この交互作用とは、個人相互の間に経験される衝動と抵抗、抑圧と促進の関係に外ならず、生は常に外的自然及び他者に対する生活関連を持っている。

従って体験理解にいたる関連もディルタイのいう「歴史的社会的現実」である。

このことは生が、いわゆる個人的生命や、生物学的生命でなく「生動性としての自己の諸関係における主体」であり、むしろ我々の生命をして生命たらしむるものであって、我々のいう生命とはかえって対象化され概念化された生であるという主張からも帰結される。  

従って、ディルタイのいう体験の自省が単なる個人的主観的生の自省でなく、むしろ歴史的生の自省であり、歴史的社会的現実への反省を含んだものであることは明らかである。


上記は本書の中の特に「ディルタイ哲学の主題」部分である。

ディルタイ哲学は「生を生自身から理解すること」を根本的な出発点としている。

そして、本書は1934年に翻訳本が発行されているが、今読んでも色褪せない、本質的な考え方であり、まさに、フォーカシング指向心理療法の哲学的考え方の原点であろう。

ディルタイは生の構造を、「生とは我々に最も直接的に知られている一つの根源的な事実である。」と言い、内から生そのものを認め、自知する仕方を「体験」と名づけ、生の第一契機と位置づけた。

そして、生の内側に向かって不断に前進するこの「体験」を我々は見ることも把握することもできない。
そのための第二の契機として、「表現」が出てくる。
体験が生の内化であり、表現はその内化する体験を外化するために必要である。

生は常に環境との相互作用により成り立っており、生は内に向かうとともに、絶えず外に向かわねばならない。

まさに、ディルタイのいう生の構造がフェルトセンス(意味ある感覚)であり、その生は状況(環境)との相互作用により、ディルタイの言葉を借りるなら、生動的であり、清新的なのである。

そして、その内なる体験とそれを状況と相互作用化する表現によって、我々がカラダ全体へと腑に落とす作用が理解であろう。
理解とは、内なる体験と外化する表現を融合するものであるように思われる。

そして、この理解により、内なる体験が具体化され、更なる内化、状況との相互作用による外化へと深化していく。

フォーカシング指向心理療法家、池見陽氏が常々私たちに伝えている、【体験―表現―理解】と言う関係性の意味がこのディルタイ哲学から生まれていることは新鮮な気づきである。

まさに、フォーカシング指向心理療法の原点となった考え方がディルタイ哲学へ散りばめられており、ユージン.T.ジェンドリン博士が大きな影響を受けた発端を垣間見た思いがする。


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