コロナに乗じた怖い問題を「バリバラ」が教えてくれた《24分テレビ》
まず、私はもともと「バリバラ」推しである。立場は「発達障害」と「神経障害」であり、性的自認は「ジェンダークィア」をオープンにしている。発達障害は定義によると「重度」ですが、自分でも何で「重度」なのかぼんやりしています。(ジェンダークィアに関しては、障害だとか社会的少数者だとかという感覚はない)
(私の場合の発達障害に関してはこちら参照)
なぜ「バリバラ推し」なのかというと、「きらっといきる」からの視聴者であり自分の生きづらさとどうやって向き合っていくかという材料を当事者同士や別々の生きづらさを抱えていく人たちが一緒に乗り越えるさまをありのまま伝えてくれる番組だったからだ。
そして、実親が介護福祉の従事であり親の影響があったという理由もある。
「コロナウイルス」を利用した職業や立場・アイデンティティによる不平等な扱いや存在の否定:職業蔑視
番組開始早々、衝撃的な話を聞いた。COVID19による禍により、社交場や居酒屋、バーやキャバレー、風俗などの廃業。それに追い打ちをかけるかのような「職業・アイデンティティ・社交場」に対して「感染源」や「賤しいから」などと槍玉に挙げられてそして、社会的に排除を受けてしまう問題だった。風俗に関しては、もともと「性嫌悪(※1)」や「風俗従事者に対するヘイト」からくる場合もあるのだが、近ごろのコロナウイルスによる災禍により明るみになっていて、さらに助長されてしまった風潮を感じられてしまう。
バリバラの出演者からは、自ら志願して従事している人たちがこのような居場所を潰されたことにより「死を選んで命を落としてしまう」という命に関わる衝撃的な話まで出てきた。SNSのタイムラインでも、ニュースでも社交場にもたらされた偏見や社会的排除によって経営者や従事者が死へ追いやられるという恐ろしいニュースを目にしたりする。「セーフティネット潰しによる死」なのだ。私には「命を落としてしまう」より「(社会的排除により)命を落とさせられた」と捉えられた言葉であった。
風俗従事者に関しては、以前岡村隆史さんが風俗従事者に対する偏見をラジオで発言してしまい、その発言の後に公開謝罪して矢部浩之さんも一緒に考える(ニュースでは「説教」と表現していた)という流れがあった。私はこの回をリアルタイムでは聴いていなかったがこの流れは本当に誠実なものを感じた。きっぱり自分の過ちを認めていたし、懺悔していた様子だった。
ところが、そのあとのSNSの流れは「岡村隆史さんのその発言を咎めていたのに、その発言を生んだ矛先だと因縁付け風俗従事者の存在の否定に陥ってしまう」という現象もあり、これも社会的排除を伴うコロナウイルス災禍から起こった憎しみの蔓延だと思う。
「ツイフェミ」という言葉もあったが、これはフェミニストの一種ではなく「性的なものに対する憎悪や性に対する排外主義に近いもの,性に無理やり因縁付けるありとあらゆる表現に対する排外的な人、海外でもTERFやSWERFなどというそれの一種をいうような言葉ができている」という方に捉えたほうがいいのかもしれない、と思うようになってきた。その「ツイフェミ」による誹謗中傷や憎悪もコロナウイルス第1波~第2波の間の時に酷かったことが記憶に新しかった。それこそ、岡村隆史さんの懺悔かと思ったらそれに便乗して追い打ちをかけるような偏見を助長させられた流れもあったのだ。
(※1)限局性恐怖症の小カテゴリとしてこういう病気はあるのだが、病識がないとそれこそ他者を巻き込む症状があり、たとえば性従事者に対する攻撃や排除を伴う場合があげられる
せっかく「広汎性発達障害」のプラスを生かすような生業探しでついにその場を貰ったのに…
私は、広汎性発達障害で「得意と苦手」「過敏と鈍麻」が非常に激しく二極化する特徴(それが「重度認定」のきっかけなのか?)があり、就労移行支援でも5回就職活動に失敗した。しかし、最近はフリーランスでもライブハウスを回って演奏を行っていたり、スポーツではダーツをやるなどで色んな生業を貰うことができた。つまり、ついに「居場所を見つけることができた」のだ。努力が実ったと達成感が生まれた瞬間でもあった。
ところが、コロナウイルスの感染源としてライブハウスが槍玉にあげられたとき、ライブハウスなど音楽や芸術の従事者に対する風当たりが悪くなり、居場所を奪われたような感覚になった。本当に悔しい思いをした。
3月末から4月にかけての出来事だったが、そのころから身体と心の不調を訴え通院時に「双極性障害の状態である」と診断を受けた。つまり心にも悪影響を及ぼしてしまった、というのを自分の身が受けたことで分かってしまった。持病であった不安神経症も追い打ちをかけるように「激しい動悸」「気萎えの感覚」という分かりやすいくらいの症状もでて、緊急事態宣言解除後しばらくして症状は治まってきてライブハウスでの活動は再開できるようになった。
ライブハウスでの活動に関しては、私の地域ではライブハウスや社交場が、県や市との連携でガイドラインを定めてくれる流れを作っていてすごく厳密な安全確保と感染予防の検証などが進みつつあり、初期にあった正体不明の不安を県やライブハウスと一緒に和らげていく方向で居場所を与える方針を作ってくださっていた。本当に県や自治体に感謝の意を示す。
これは、自分の自治体の方針であるのだから、県や地域によってこういう格差があるのだからまだまだ不安が募っている、居場所を腫れ者扱いされているなどの偏見を受けている当事者がいるかもしれないと考えるとやはりまだ心が痛む。
こういう流れもあったからこそ、私は「夜の街関係の従事者が受けていた社会的排除」という現象に共感することが多かったし、心が痛むほどだった。
「コロナ差別」「コロナからくる存在蔑視」の小噺
(※電子書道は自筆です)
桂福点さん。彼の小噺は被差別というものを笑いに変えてくる、されどまじめな話であるのであの喜劇王チャップリンや「考える障害者」なども著しているホーキング青山さんの表現手法に近い。志村けんさんもそんなスタイルだったかな。
「匿名や顔の見えない状態でのSNSによる差別やいじめ・誹謗中傷」を小泉八雲の怪談でおなじみの「むじな」の化ける「のっぺらぼう」になぞらえた「のっぺらひぼう(のっぺら―誹謗;野篦誹謗)」。
重く痛い内容ばかりでも読んでいる皆様にとっても心が滅入りそうなので、ここでちょっと嬉しい話もしておきましょう。
私は落語や小噺が大好きでして、元ネタであった「のっぺらぼう」は高校生の頃に、こども園を訪問して子どもたちにもわかりやすくアレンジを加えた落語を披露したところ、元ネタは怪談だけどユーモアも交えながら楽しくしたらすごく楽しそうに笑ってくれて嬉しかった思い出がよみがえった作品でもございます。
※あえて平仮名で表記しました
わたし「かおにはめとはなとくちがあるんだけど、それでだれなのかがわかるでしょ?もしこのめがこうかんできたら(何のアニメかは忘れたけどアニメキャラの名前にした)になれるんですよ。でもふりかえったおんなのかおはゆでたまごみたいにきれいになにもついてないんですよ」
園児さん「わたしもかおけしてのっぺらぼうなりたーい!かおかいてかわいいプリキュアのかおになりたーい!」
わたし(…「ドラえもん」でも観たのかな?そんな発想するとは、将来すごくクリエイティヴな望みになりそうだなぁ。)
オチを言おうとしたら 突然…
園児さん「いつまでやるの~?」
わたし「そうそう、そんなおはなしだからみんなおうちにかえれなくなっちゃうんだよ。だからほんとうにこわいんだよね。おあとがよろしいようで!(※2)とっぴんぱらりのぷう!」
園児たち「あはははは!!」
(※2)物語や落語を終えるときの決まり文句のフレーズで、私が生まれし故郷ではよく使われていた。
私は口を挟まれるのは大の苦手だが、こども園で園児たちが話の最中に口を挟むのはわかっていたから気にしないの前提で話を進めていた。あの時は、本当に視野が狭かったのに、一緒に落語を作っているみたいで本当に嬉しい気持ちになったなぁ。そして披露したときの子どもたちの想像力の高さに感心させられたし、まだまだ私の想像力は未熟だったなぁと感じた。
…そんな思い出がございました。
それはそれとして…
今回の小噺はとても真面目な小噺でした。
「コロナ差別」をよびおこした「風評被害」と「デマ」。の「二度の怪」…いや、「三度?四度?何度でも起こる怪」なのだろうか。
クラスター感染が起こってしまった医療現場や大学、ライブハウス、社交場など…
それに対する誹謗中傷やいわれもない罵詈雑言… 実話を落語にしたその体験。落語の題材を桂福点さんが自らクラスター感染が起こってしまった現場からその現実を伝えて小噺にしてくれた。
医療介護従事者に対する感謝・・・それが突然憎しみに変わってしまう、または「恐怖の暴走で医療従事者をことさらウイルス扱い」、もしくは憎しみに受け取られてしまうというリスクも小噺にアレンジした。
愛と憎しみの紙一重。これにより自分を見失ってしまい知らずにやってしまう暴走による「誹謗中傷」など。
SNS等で起こっている誹謗中傷の現象ともこれがつながっている。まさに同調圧力というものに近いのっぺらぼうな心のパンデミックなのかも。そして、その同調圧力に飲まれたことに気付いて人格を鏡を見てみると、そこには目も鼻も口もないのっぺらぼうのような自分がうつっているのかもしれない…
最近は、自閉症から起こりうる「感覚過敏」、ぜんそく、皮膚の障害、耳の奇形(例:小耳症)、乾癬、材質アレルギー、即時型アレルギー、汗疹による副作用、神経障害などで熱中症になりやすい体質、酸欠症、内部障害から出る貧血、カテーテル利用者、肺線維症、器官疾患、チューブを助けにする人… これが原因でマスクがつけられない人もいる。しかし、マスクをつけることが暗黙的なルールになっていることでそれらの存在を否定される、そういう障害があるという事を理由に拒絶されているという事も起こっている。それこそ同調圧力による「のっぺら誹謗」ってやつなのか、とも思った。
ハンセン病当事者から聞いた話
「24分テレビ 愛と憎しみのパンデミック」その前に、アンコール放送で「バリバラ 本当にあった怖い話」を放送してくれたのだが、ちょうどそのタイミングでアンコールで再放送してくださるのかという再放送の選び方に感心した。 「バリバラ 本当にあった怖い話」では、ハンセン病患者に対する「産む権利」の剥奪という問題を取り上げていて、それは「旧優生保護法」という法律にあった残酷な扱いだった。それを小噺にしたのも桂福点さんであった。番組から読み取れたのは、不妊手術を受けるときの手術台はことさら冷たく感じるという恐怖をあおらされるくらいだったのだろう、ということだった。バラエティに真面目な話を挟むのは本当に意味のあることで、ここで啓発や普及の力を発揮しているように感じる。今はこの法律で差別的な目的で不妊手術を認めていないし、性被害にあった人たちの「望まない妊娠」に対するケアも考えている。当時の法律から被(こうむ)った当事者への補償制度もある。しかし、当事者による訴訟はまだ戦っていて、円満に解決できるような流れになることを願うばかりである。
ハンセン病の話は、私が小学生の頃に祖母からその病気の当事者に対する「人の扱いをしてもらえなかった」というほどのひどい扱いを受けていたという残酷な時代があったこと、今こそこんな歴史を繰り返さないように病気を怖がってもその病気にかかった人までを虐げないようにと厳しく教わった。それを教えてくれた天国の祖母に改めて感謝。その話を社会(地歴公民)の学校教育であまり深みに入らないのだろうか、保健体育や道徳とリンクできないものなのだろうか、という疑問が今でも残ったのである。
番組ではハンセン病((※3)当時は「癩(らい)病」とよばれた;「癩病」という呼称に差別的ニュアンスを感じる人もいる)に罹患したことがある当事者からの話も聞けたのだが、今の新興感染症「COVID19」による流れはハンセン病療養所で過ごした当事者から出た話は「似てる部分がある」というのだ。正しく怖がらなかった、大衆(メディアやマスコミなど。場合によっては国も一緒にやってしまったこともある)が煽ったがために恐怖を助長されいつの間にか人としての扱いさえさせてもらえなかった… 濃クレゾール漬けにされた(!!)など。番組内では、使われた浴槽も映し出されていて、クレゾールが金属と酸化反応を起こした物質の色(くすんだ黄褐色から褐色を呈している)の残渣のようなものも映し出された。
クレゾールというと私は高校の有機化学で習ったベンゼン誘導体の有機化合物としては勿論のこと、大学生の頃に有機化学演習で教授の監察のもと扱ったことがある有機化合物というイメージが大きいのだが、濃クレゾールは皮膚に付着してしまうと皮膚をおかし真っ赤にただれさせてしまうし、眼球も溶かす(つまり、視覚の後遺症を残す)し、吸い込んでしまうと内臓や中枢神経までダメにさせられる。しかも最近はヒトのみならず海や川の生物に対する致死毒ではないかという指摘もあり問題視されている有機化合物だ。
(※しかし、最近は京都大学が糖尿病の治療に対関してクレゾールから作られる薬品は有効ではないかという研究も進んでいるそうなのでクレゾールそのものを特別悪者視しているわけではない)
そんな話を聞いたので身の毛がよだつ気分になった。
番組では取り上げなかったが、腸チフスの事も思い出した。腸チフスはドイツでDr. Koenumaこと肥沼信次医学博士の功績がある。腸チフスがはやった時は病院でも看護師が患者に触れないような医療をしたがために治癒者がなかなか現れずに命を落としてしまう人がいた。その時代から救って歯止めをかけた物語を作ったのが肥沼博士だった。肥沼博士は自らもチフスに倒れたが、治療法の確立に医療関係者とともに尽力し、看護師たちは彼亡き後もチフスの終息にも尽力させる功績を残した。
ハンセン病を経験した当事者や、腸チフスと戦ってきた肥沼博士の事を教訓にして、これからCOVID19やそれを取り巻く社会状況を見極めていく必要があると思った。
今の日本ではハンセン病を発症しても「まれ」といえるほどに収束することができて治療法も確立されている。さらに、バリバラを放送したNHKは、ハンセン病療養者や親族への援護を受けている人に対する社会的不利益から守る姿勢がある事も読み取れる。そのひとつとして公的扶助受給者に対するNHK受信料の全額免除制度により補償という支援を行なっていることが挙げられる(下リンク参照)。
(※3)「癩病」の「癩」は、辞書によって「かったい」という訓読みが載せられていましたが、この意味は「傍居」や「片居」から来る身体障害者、知的障害者、移動生活者に対する蔑称にも使われていたという説明があり、漢検参考書ではその訓読みが削除されています。他の漢字に「癘」がありハンセン病以外の意味合いもある漢検配当漢字です。同じく漢字圏である中国では医学用語として今も「癩病」というそうで、その言葉を使わない場合は「麻(痲)風」という言い換えの言葉もありました。
(参考図書・参考資料:小学館大辞林、岩波書店広辞苑、大修館書店新漢語林、上海辞書出版社現代漢語大詞典(中国)—中国語から出展だったものの簡体字中国語は日本字体に直しています)
私が抱える「憎悪」を伴う可能性がある心の障害があることの悩み
タイトルには「愛と憎しみのパンデミック」。
私にはそのタイトルから一つの障害に罪深さを感じてしまった。その障害は不安神経症からくる「限局性恐怖症」である。これは、特定のものに恐怖感を催し、場合によっては他者攻撃や排外に繋がる場合もある。特に、病識が自分になかった時に起こることが多い。つまり、自分が生きづらい障害のみならず「周りの人も生きづらくさせてしまう可能性のある」という心の障害なのである。
私が受けた診断は、過去に受けたトラウマから神経的に受け付けず身の毛がよだつような神経不安症状が起こりえるというものだった。
具体的な症状を表したものは「動物恐怖症」という。野生動物に対する恐怖があり、犬の散歩すら怖く神経的に受け付けないというものである。
キャラクター、擬人化、剥製、毛皮、模型、食肉に対しての恐怖は起こらない(もはやいとしさやかわいさを感じる場合もある:「あつ森」プレイしてたり)。
高校生の頃の修学旅行では奈良公園が行程に入っていたが、その時は健康診断表から「護送車移動」という合理的配慮をしてもらうことができた。私は動物恐怖症だから奈良公園を修学旅行から外せ、なんて言ってしまうと他の同窓生を巻き添えにして苦しませてしまうことになるから。
限局性恐怖症は、恐怖の対象のものや特徴によっては存在が許せなかったり、憎悪が伴ってしまうことがある。
(同性愛恐怖症、性恐怖症、蜘蛛恐怖症、閉所恐怖症、血恐怖症、数字恐怖症、恋愛恐怖症、道化恐怖症、外国人恐怖症… など沢山あるが種類によってそれがわかりやすいものがある。)
それだと、間違いなく周りの人の生きづらさをもたらせてる障害でもある。こういう障害を周りに与えないように、人格否定しない・特定のものや表現を排外しない・恐怖を催すものに対してことさらに攻撃しない、という事を誓っている。それは、ヘルプカードにも見る側が安心できるようにとその一文を添えた。それだけでも本当に助け合いなんだな、と改めて思った。
今年のバリバラ24分テレビ「愛と憎しみのパンデミック」は、本当に色んなことを考えさせられた回でした。バラエティでなくとも、バラエティとしての面白さがなくとも、常に「バラエティ」でいこう、というとマンネリ化してしまうように、こういう回を挟んだのは本当に有意義なことだと思います。
本当にまじめなことを伝えてくださり、ありがとうございました。
(広汎性発達障害・神経障害・ジェンダークィア 瀛 妃逸-Jobz Age28)
重大な問題を教えてくれた番組;24分テレビ(リモート生放送)
出演者のみなさま:
リモートコメンテーター―玉木幸則
司会―山本シュウ(レモンさん)
ベビー・バギー
ゆうや佑哉
LOVE MAMA
山村茜
小噺・落語―桂福点
リモート講談;伝染病について―山城清重
声の出演/ボイスオーバー―神戸浩
(敬称略)
【お詫び】2020/08/24〜2020/08/25 追記・訂正
(1)当時のハンセン病の「癩病」呼称について、ハンセン病の当事者以外にも障害者全般や移動生活者のライフスタイルに対する差別的なニュアンスをも含んでいた、という註釈と、ハンセン病当事者やその家族に対するNHKの取り組みを追記しました。
(2)誤字の訂正を行いました。
【謝意】
山村茜さんが、自身のTwitterで私のNoteを紹介・引用してくださいました。本当に恐縮です。ありがとうございました。
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