見出し画像

バギーの部屋 第2夜を観て。 キャラクターと自分らしさと…そして性と…

 2020年4月16日、NHKバリバラで、LGBT+「バギーの部屋」第2夜が放送された。番組の予告の内容から、「らしさの迷宮」ということがすごく自分が悩んでいる内容に近かったのですごく興味があり、心を寄せられる内容なので観てみた。

 私の悩みは、「男らしさ」「女らしさ」などの「(ジェンダー・性)らしさ」という言葉どちらにも抵抗があり、ジェンダーロールという存在は認めていてもそれを押し付けられることに抵抗があることだ。心の状態はジェンダークィア/ノンバイナリと呼ばれる類のものの一種でマジョリティとされる二つの性別とそれ以外の「性」がグラデーションのようになっていて交じり合っている感覚である、という自認である。少々嗜好とつながっている場合もある。
 自分らしさ・プライド、というのをアピールしようとするとどうしても「(性的役割)らしさ」というのが阻害して自分の個性をアピールすることができなくなるという呪縛で精神的に苦痛を感じていた時期を思い出した。思春期も早かったし、思春期には「性の役割」が風潮と一致しないという適応しづらい感覚を持っていた。男女概念というものの抵抗感は今でも感じている。特に「ミソジニー・ミサンドリー」や「性的に因縁をつけた排外的行為に走っている」人たちにより強制的に押し付けられた場合だ。 

画像1



 例えば私の場合、写真をご覧の通り好きな色は主に「ピンク系統」のもので、これはアスペルガー症候群の特徴といわれる「色のこだわり」もかかわっているとされている。そして、ファンシーグッズも小さい頃から集めていた。ピンク系統の色は「女性の色」、ファンシーグッズ集めは「女性の趣味」だとされる風潮がある感じが少なからずあるようで、「他害行為があるタイプのパラフィリア」ではないのに「変態」扱いされていたこともあり、自分にそういう扱いを受けるのは構わないと思っているけど、他害行為をしていないのにその性質を悪者扱いをすることがありそれを不条理に思ったのでこれには全然馴染むことができなかった。「~が好きな~性」「~をしたい~性」の状態である、という形の性的役割や性的因縁による内外問わない呪縛に対する不快感というものを思春期になって初めて感じ、自認や嗜好に対してのものに及んでいた。
 番組では「スカートを穿きたくない女性」の件を取り上げていて、「~をしたくない」の部分が「~したい」のように逆でも同じことを考えているんだ、ということが分かって本当に表裏は違っても共感した。

 私は「キャラクター」としての性的役割という存在は認めていても(寧ろその存在はオネエ系、ボーイッシュ女子、おてんば、オトコの娘、漢女… というアイデンティティ・個性が確立できる利点もあった)、その強要は本当に怖いことがある。個性、自分らしさというものを阻むものになりうることもあるかもしれないから。番組に取り上げられた「フェム、中性的、ボイ(フェミニン、中性的、ボーイッシュ)」という言葉も。これも見た目が三分化されている感じであまり自分には合わず、気分やときによって変わる感じがするので言葉の存在は認めていても自分がどうなのかと問われたら答えることができないし、あくまでもその3形がグラデーションでつながっていればすべて人格や個性をつかさどっている見た目、身形として受け入れていくといえばしっくりとくる気がする。

 トランス(※1)の当事者の話も取り上げられていたが、その話から私が思い浮かんだのは「ゾンビランドサガ」という作品の「星川リリィ」というキャラクターの作中のエピソードだった。 性別が二つあるマジョリティの山を下りた先には樹海が広がっているという例えだった。その樹海の部分は悩みや自認の迷い、心的外傷などの精神的な苦痛を催す事象であった。この話の中には「悩んだ末に(樹海で)自ら命を絶ってしまう当事者」というすごく重い内容も含まれていた。
 ゾンビランドサガに登場する星川リリィは、生物学的性が男性だが自認が異なるという解釈ができる、つまりトランスの一種というアイデンティティである。この登場人物がゾンビになる前に成長過程に伴った性別違和による心的外傷を起こしたと思われる描写と同時に心臓発作で亡くなってしまうシーンもアニメ作中にあったのだが、立場が「子役をつとめていた」ことによる仕事の積み重ねによるストレスによる不安と思春期による「性別違和」による二次障害として不安障害が重複してしまい心原性ショックを起こしたことによるものだと解釈した。
これは性別違和でなくてもストレスが積み重なると死を呼ぶような病気はありうるし、実際に私もストレスが原因で白血球が減少してしまったという診断を受けた経験をしている(現在は回復した)。しかも仕事のし過ぎでストレスを積み込みすぎて亡くなってしまう例が実際にあると知っているとゾンビランドサガ作中の星川リリィの悲劇の見え方はこんな感覚になってしまうし、実際にバリバラ番組内で樹海にたとえたトランス当事者の話を聞いてゾンビランドサガの作中のエピソードが創作物でなくても実際にあり得るかもしれないんだな、と改めて感じた。

 バリバラのLGBT+当事者会議の内容を観て、大事なことは「不本意な個性に対する介入を避けること、否定・規制・排外をしないこと」そして「ラベリングしなくても異質扱いをしない」ということが「性的多様(指向、自認、嗜好…)」にとどまらず色んな人間に対する生きづらさと周り(社会など)との馴染みづらさ、ほかには暮らしづらさなど…をいろんな視点から解消する方法を考えることを見出す手段になりえる、と感じた。

(※1)トランス…ここではトランスジェンダー、トランスセクシャルを包括して言った言葉です。

(第1夜も観ています。その時はラベリングに関する議論が自分に突き刺さったためそれに関してはこちらをどうぞ。)
2夜までの番組中には、この内「レズビアン」、「ゲイ」、「バイ」、「ジェンダークィア(Xジェンダー)」、「トランス」の当事者が出演し会議を行うというものでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?