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修論でやりたいことのはなし。2023年正月

はじめに

2024年1月提出の修士論文の見込み付けとして、メモ的な感じにやりたいことや見通しを書きました。どっかで発表できるように頑張る!
 論文全体としては音楽ライブの体験を、ライブで用いられる様々なメディアとの関連において捉えていくことを目的としています。まず山田陽一の「音響的身体」論を拡張し、音楽ライブを体験する身体に「観客の視線」を考慮に入れる必要性を提示。その上で、メディア化(例えばPAシステムの使用や演奏のコンピュータ化)によるパフォーマンスの変化を論じます。ここでは音楽ライブにおける「音とパフォーマンスの視覚的なズレ」をフォーカスし、映画音響理論を用いながら具体例を挙げつつ解きほぐしていきます。最後にメディア化が進んでもなお人間の「演奏者」が求められる状況について、拡張した「音響的身体」論をベースに考察していく予定です。

以下に具体的な内容をまとめています。

音楽ライブでの「音響的身体」について考える

山田陽一の「音響的身体」の論とライブ・パフォーマンスに関わるメディアについて。

結局のところ、オースランダーがいうようなライヴとメディア化の相互循環的なモデルは、ライヴ・パフォーマンスとメディア化されたパフォーマンスの実態を細かく分析していくことの無意味さを強調しているようにも思える。たとえばライヴ・パフォーマンスやライヴ・ビデオ、ライヴ・アルバムと、スタジオ録音やミュージック・ビデオ、MTVの違いを強調することに、どれほどの意味があるのだろうか?あるいは、ドーム球場でのロック・コンサートにおいて、ミュージシャンの背後に座っている観客や、ミュージシャンの姿が米粒ほどの大きさにしか見えないような遠くにいる聴衆にとって、ライヴ・パフォーマンスの主たる経験は、巨大なビデオ・スクリーンからミュージシャンの振る舞いを読み取ることにほかならないといった状況について、何がライヴで、どこがメディア化されているかを分析することにも、おそらく本質的な意義はない。

山田陽一『響きあう身体――音楽・グルーヴ・憑依』「第4章 ライヴな身体」 p.181

 まず最初に、山田は各種論考や著書においてさまざまな音楽体験を現象学的に捉えており、音楽を「鳴り響いては消えさる、はかない音の響き」としていることを挙げる必要がある。例えば声は、口から発せられれば耳によって鼓膜の振動として知覚される一方で、頭蓋骨や胸・腹にも反響し共鳴しながら受け止められる。このように身体が音を響かせる場となるような、音楽体験において音がもたらす様々な感覚を繋いでいく身体が「音響的身体」である(山田編『音楽する身体』p.26 参照)。その上で『響きあう身体』の4章では「音楽を経験する身体、音楽に参与することとグルーヴの発現、そして踊る身体のありかた」と、「響きあう身体や(注:音楽に)憑かれる身体とを仲介し、結びつけるための共通の基盤となる」のが音楽の「ライヴ性」、音楽が「ライヴである」状態であるとする(p.168)。4章第2節の「何がライヴで、どこがメディア化されているかを分析することにも、おそらく本質的な意義はない」という論は、フィリップ・オースランダーの論(Philip Auslander: Liveness. Performance in A Mediatized Culture, Rondon & New York, Routledge, 1999)から成る。オースランダーはロック・ミュージックにおける「真正化」のプロセスにライブが関わる例を挙げつつ、現在では録音されたものが音楽の一次的な経験をなし、ライブが二次的に録音されたサウンドの真正性を証明し一時的な音楽体験を正当化するという。よってライブとメディア化は相互依存的であり、真正と非真正で対立するものではない(『響きあう身体』p.177-180参照)。

 筆者は卒論をテクノポップやエレクトロニカのライブ・パフォーマンスを題材にして書いたのでテクノ系の音楽で勝負するつもり。まず山田が引用している範囲のオースランダーの論では、ライブとメディア化が相互依存的という論は同意できる。それにあたって「真正性」とは何か、どういう位置づけの事柄なのかを改めてまず論じる必要はあるが、「真正性」を混乱させるようなライブと視聴覚メディアのかかわりの事例は多数ある。YMOが「Public Pressure」でライブ音源にあった渡辺香津美のギターソロを消してスタジオで編集したシンセのソロを重ねた例や、ミスった部分を直した例、BUCK-TICKが音楽番組に出る際にカラオケ音源を使用する例など。

 ただ自分はオースランダーに同意する一方で、「何がライヴで、どこがメディア化されているかを分析することにも、おそらく本質的な意義はない」という部分には異論がある。論文では、山田のようにメルロ=ポンティやミケル・デュフレンヌの現象学を使って音楽体験を考える場合に「ライブを目で見る」体験を無視して良いのか?ということを指摘したい。日本語でも「ライブを観に行く」という言い方もあるし、プレイヤーの一挙手一投足に反応し歓声を上げる観客がいるように、音楽ライブの中には音楽以外の視覚的体験、または音楽と連動した視覚的体験が多分に含まれている。
 そもそも山田の音響身体論は「身体の現象学的な響き」をメインに考察しており、「見る」行為にはほとんど着目していない。「音響身体論的に重要なのは、音の浸透や反響や共鳴が「音楽的体験の核心」となっているということ」(山田『響きあう身体』p.248)なのだが、その音の浸透や反響や共鳴の様相は、音楽が「ライブである」場所によって異なるだろう。小さなジャズ喫茶でのライブや民族舞踊をする共同体のような場所では、楽器や身体が発する元の音そのものが反響する。しかし巨大なライブ会場ではPAシステム無しにはそれは不可能であり、鳴り響く音は必然的に増幅されたものとなる。またジャズ喫茶のような小さいライブと巨大なライブ会場とでは音楽体験の変化は当然起こる。後者では演奏者やステージとの距離によってある場所ではプレイヤーを見上げながらモッシュし、ある場所では椅子に座ってゆっくりステージを眺める違いがある。山田の論は音楽ライブを現象学として捉えるが故にその背景にあるメディアやそこに関わるものを無視し、音楽ライブを民族舞踊のコミュニティ的なものさしで「標準化」しているように思えるし、少なくとも音楽ライブに関しては、規模の大きさによる体験の違いに関してある程度の場合分けをした上で捉えるべきと考えている。ひとまず現象学的に音楽体験を捉えること自体に異論はないので、そこから拡張した感じで考えていきたい。

 視覚的体験として音楽ライブを捉え、音楽と身体を現象学的に考えていくためには色々手筈があるが、まず具体的な対象や事例を位置づけてやっていく必要がある。例えば巨大な音楽ライブはどのように語られているのか。どのようなレトリックでレポートされているのか。書籍だけでなく一般のブログとかも見ていかなければ。また音楽ライブのセットを用いた視線誘導・視線の政治学的なものについても。見る側面をもっと強調していきたい。

音楽ライブにおける「演奏する身体」と「音」の倒錯

 ここはまだ上手くまとまっていないが、卒論の続きのような内容。広義のテクノ・ミュージック(Kraftwerk、Yellow Magic Orchestra、Corneliusなど)の、いわゆる棒立ちで動かないライブパフォーマンス、またボーカロイドのライブ・パフォーマンスについて論じる。前者は演奏される音と、演奏の動きが噛みあわない視聴覚のズレが起こり、演奏の「真正性」や音の出どころを混乱させるようなやり方について映画音響理論の観点から考察。アクースマティック的な状態を担保するための肉体の現前というテーマで考えていくつもり。後者はボーカロイドのライブパフォーマンスに人間のバックバンドがいるという状態について考えるもの。人間不在のポスト・ヒューマン的なステージの中で、人間がわざわざステージの端に寄ってまでその「演奏」を行う場所を確保しようとする状況を見ていく。何が人間の演奏者を求めているのか?

まとめ

 自分がテクノ・ミュージックのパフォーマンスを考えるとき、「別にステージの上にメンバーがいる必要がないのにいる」のはなんで?というテーマをいつも大切にしています。Kraftwerkのように全部打ち込みにしてメンバーの代わりにロボットに演奏させることさえもできてしまうのがテクノ・ミュージックですが、現状は必ずしもそうならない理由があり、そこに大きく介在するのが電子楽器やステージ上の巨大なスクリーンといったメディアになる。その点を何とかうまく論じていければと思っています。

文献等(現状・主なものを抜粋)

  • 久保田晃弘監修『ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック――拡散する「音楽」、解体する「人間」』大村書店、2001 年

  • 佐近田展康「映画における音の空間――聴覚的空間性の技術的操作とその機能」『名古屋学芸大学メディア造形学部研究紀要』第8巻、p.23-36、2015年

  • ジョナサン・スターン『聞こえ来る過去――音響再生産の文化的起源』中川克志他訳、インスクリプト、2015年

  • 谷口文和「ターンテーブリズムにおけるDJパフォーマンスの音楽的分析」『ポピュラー音楽研究 Vol.7』p.15-34、2003年

  • 永井純一「〈参加〉する聴衆――フジロックフェスティバルにおけるケーススタディ」『ポピュラー音楽研究 Vol.10』p.96-101、2007年

  • 長門洋平『映画音響理論――溝口健二映画を聴く』みすず書房、2014年

  • 増田聡「電子楽器の身体性――テクノ・ミュージックと身体の布置」『音楽する身体――〈わたし〉へと広がる響き』、p.113-136、2008年

  • ミケル・デュフレンヌ『眼と耳――見えるものと聞こえるものの現象学』桟優訳、みすず書房、1995 年

  • ミシェル・シオン『映画の音楽』古沼純一・北村真澄訳、みすず書房、2002年

  • 細川周平『レコードの美学』勁草書房、1990年

  • リック・アルトマン「ムービング・リップス――腹話術としての映画」行田洋斗訳『表象 16』p.53-65、2022年

  • 山田陽一「音楽する身体の快楽」同編『音楽する身体――〈わたし〉へと広がる響き』p.2-37、2008年

  • 山田陽一『響きあう身体――音楽・グルーヴ・憑依』春秋社、2017年

  • Philip Auslander, Liveness: Performance in A Mediatized Culture, London & New York, Routledge, 1999

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