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電子音楽と視覚的イメージ:卒論のまとめ

主な内容

2022年1月に提出した学部の卒業論文の内容を改めてまとめました。
主な内容は、電子音楽(ここでは70年代以降のポピュラーな文脈においての電子音楽)とそのアルバム・ジャケットやライブ演奏時のステージングの様子など、「音楽+それに付随した視覚的イメージ」としてその関係性について論じたものです。

特にステージングに限って言えば、シンセサイザーなどの電子楽器を作曲に用いた電子音楽の変遷は、無論、電子楽器自体の変遷(高性能化etc.)と不可分なものです。そしてその変遷は、パフォーマンスの視覚性に大きく関与しています。例えばイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)は1978年の結成から1983年の「散開」までの5年間のステージングを比較すると、後年にしたがってステージ上のシンセサイザーが減少するとともにステージ上の舞台芸術化が見られ、メンバーの楽器演奏以外の視覚情報がステージ上を占める割合が高くなっています。この傾向はYMOに限ったものではありません。
クラフトワークは2000年代に入ると従来のシンセサイザーさえもステージ上から省かれ、4人のメンバーの前にそれぞれパソコンが置かれるのみになり、こうした楽器の「小型化」によってある意味反比例的にステージ上での視覚性が上がることになります。そして2012年からは正式メンバーとしてビデオ・エンジニアが加入し、観客が3Dメガネをかけ鑑賞するライブを行ってさえいます。またテクノポップの流れを汲むPerfumeも、演出振付家・MIKIKOらの映像作品による演出が行われるなど、現在の電子音楽では音楽的要素と同程度に視覚的要素が重要性を増してきています。

それと同時に、YMOやクラフトワークで見られる「コスチュームの画一化」や、「身体を動かさずに楽器を弾くパフォーマンス」、ステージ上の楽器の小型化・不可視化は、従来行われてきたような楽器を演奏するパフォーマンスにとっては、その視覚的要素を失わせることにも直結しています。

以上のように説明した通りの特殊な構造をもつステージングや、ロシア構成主義の引用などの電子音楽特有のアートワークやそれらに関連した言説について検討し、電子音楽がライブの場で実践される際の「楽器の存在」と「視覚的イメージ」「演奏者と観客」の関係性をメインに論じていきます。

少しは参考になればいいな…論文について頂いたコメントのまとめも最後の方に入れてます。

1. 「ピコピコ・ミュージック」の言説とテクノロジーの可視化

主にテクノポップに対する「ピコピコした音楽」という言説と、それに関連した視覚的イメージに対する考察。椹木野衣は自著『テクノデリック―鏡でいっぱいの世界』や久保田晃弘監修『ポスト・テクノ(ロジー)・ミュージック』などで度々自らの「テクノ論」を展開している。椹木のテクノ論は、テクノロジー自体が持つ、我々の感じる身体性や自然さへの「到達不可能性」や「未発達性」に焦点を置き、そしてそれによる「我々の身体感覚とのズレ」にテクノ的な芸術作品の美学を読み取るものである 。
それをベースに、主に80年代の家庭用ゲーム機の音源チップを用いて制作される音楽ジャンルであり、同じくピコピコ・ミュージックと呼ばれる「チップチューン」の性質、またピクセルアート(ドット絵)によるチップチューンのアートワークを例示した。そのうえで、電子音楽を含む「テクノ的な芸術作品」は「レトロな家庭用ゲーム機の音響を連想させることを経て、自らの持つテクノロジー性をあからさまに可視化する」ことにその力点が置かれているとし、一時代的な観点から椹木論の再定義を行った。

チップチューンのアートワークの例(TORIENA×UPDT)

2. クラフトワーク、イエロー・マジック・オーケストラの視覚的イメージの変遷

アルバム・ジャケット、ステージング、ステージ衣装などに関しての考察。全体として「画一化されたコスチュームの着用」、「観客とコミュニケーションをあまりとらない」、「立ち位置から動かない楽器の演奏」、といった面で共通性が見られる。一方で技術的な進展によってステージ上の電子楽器が減少し、メンバーの演奏への負担が減少する流れの中では、2グループのアプローチは異なっている。クラフトワークはステージ上をミニマル化し、ひいては鍵盤楽器の消失にまで至ったが、イエロー・マジック・オーケストラはその過程の中であっても鍵盤楽器の演奏は残された。その代わりにステージ上を舞台芸術化し、演奏以外の視覚性を大きく強化することを選ぶ中で、彼らが活動初期~中期に持ち味としていた、テクニカルなソロ・パート演奏のようなライブ・バンド的要素は軽薄化を強めたと論じた。
またイエロー・マジック・オーケストラが頻繁に引用したヤコフ・チェルニホフによる建築ドローイング作品について、彼らが音楽的・美術的に主題とした1920年代における「都市への愛好性」の性格を見出せるとした。

YMO「ウィンター・ライヴ 1981」のセット

3. クラフトワークの〈Gesamtkunstwerk〉の検討

クラフトワークが美術館に登場したことでマスコミは相次いで興奮した。彼らが、最も高尚な美学の領域に踏み入ることが許可されたように。(中略)ロックの殿堂入りをするには、クラフトワークには粗暴さがなかった。そしてだからこそ、MOMA で演奏をするにあたって、彼らはワグナーが夢想した音楽と映像と劇が全て統合された、彼ら自身の〈Gesamtkunstwerk〉(トータル・アート)という宣言を実現したと言いはった

デヴィッド・スタップス『フューチャー・デイズ―クラウトロックとモダン・ドイツ
の構築』小柳カヲル他訳、Pヴァイン、2016年、218頁

2012年、クラフトワークが自らのステージングについて〈gesamtkunstwerk〉(総合芸術)と主張したことについて、リヒャルト・ワーグナーの「総合芸術論」の観点からの検討を行った。ステージングがインスタレーション的要素を含み、またドイツ語圏でgesamtkunstwerkの語が芸術批評によく使用されるとはいえ、これは意図的な拡大解釈として考えられる。ワーグナーの論に倣い、舞踏芸術、音響芸術、詩文芸術それぞれの融合、また頭韻による詩文芸術の救済の観点から考察を行った。
特に舞踏芸術はワーグナーの提唱する「「外的人間」としての「肉体的人間」(高橋順一『響きと思考のあいだ――リヒャルト・ヴァーグナーと十九世紀近代』青弓社、1996 年、134 頁)に対応しており、視覚性をそのメインとする舞踏芸術によって、初めて音響芸術と詩文芸術はその感覚的外面性を獲得することができるものである(同、120頁)。
それを楽曲のライブ演奏に当てはめれば、典型的な「演奏している様子」「歌っている様子」を見ることによって、音としての演奏自体がその感覚的外面性を獲得するといえる。その点でいえばクラフトワークのライブ演奏は、舞踏芸術による感覚的外面性を獲得するために、ステージ上で演奏と共に流れる映像作品へ大きく依存していると考えられる。

クラフトワーク「Tour de France Étape 2」のパフォーマンス

4. テクノ・ミュージックのライブ演奏と映像への関心、また身体性

ライブ演奏と映像作品を同期したインスタレーション的パフォーマンスを行う例として、クラフトワーク、コーネリアス/小山田圭吾を例示。そして「動かない演奏」と「音楽と映像の総合」をキーワードに、そのステージングの特殊性について考察。演奏の身体性を意図的に削減することで、観客が音楽と映像の総合に集中しやすい環境を作り出しているのではと論じ、それがオペラ的な構造(ステージ上のメンバーは、オーケストラピットに入ったオーケストラのような「存在するが見えない、音源のみとしての存在」であるということ)を生み出しているとした。
また「電子楽器は人間の身体が行う演奏の「シミュレーション」を行っており、そこに演奏者や聴衆の身体性は関与しない」「アコースティック楽器には「音と身体のミメーシス的関係」があるが、電子楽器にはそれは無い」という増田聡の電子楽器と身体論(増田聡「電子音楽の身体性――テクノ・ミュージックと身体の布置」山田陽一編『音楽する身体――〈わたし〉へと広がる響き』昭和堂、2008年、125-128 頁)をもとに、平沢進、ことぶき光、森岡賢らを例示し、演奏者の身体性が欠如することへのパフォーマンス的アプローチの違いを明らかにした。
平沢、ことぶきは電子楽器の演奏とその身体性を直結するように見せるオリジナル楽器によるパフォーマンスを行い、電子楽器の演奏において演奏者の身体性が必要となる余地を残そうとする試みであると解釈した。一方、森岡の演奏を行わず自動演奏に任せ、自らはヴォーギングなどのダンスを当てぶりを交えつつステージ上で行うというパフォーマンスは、ミケル・デュフレンヌの音楽的身体を観客と直接共有しようという試みであり、クラフトワークのように演奏と演奏者自身の身体性の欠如を問題としないパフォーマンスの様式として捉えられるとした。

ことぶき光とシステム化された機材群「砦」

コメント・展望

本論文ではテクノにおける「直立不動で動かない演奏」をフィーチャーしていますが、「演奏とそれを行う身体の感じがズレている」という観点から考えると、テクノ以外の分野でも他にも色々な例が見えてきます(動かない例としてBOØWYの松井常松とか)。

リズムに関係なくジャンプする甲本ヒロトの痙攣パフォーマンス、Devoの直立&痙攣など……テクノ以外(この場合はパンク)の分野における例との比較。そしてジェームス・ブラウンをはじめとするファンクの文脈がシンセポップに入り込み、運動を失う過程との関連。そのような歴史的文脈の中にテクノの「不動性」や「演奏と身体のズレ」を位置づけることが必要に思われます。またそのロックンロール~ロックの文脈にテクノを置く場合、性的要素との関連についても論じることが可能な感じもします。多分それはオートマトン的なものかも。

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