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阿波と東国❶ 阿波から日本が始まった

最近古代史マニアの中で密かな話題になっているトピックがあります。
それは「阿波から日本が始まった」というものです。
つまり阿波国日本起源論です。

古代史マニアは古事記や日本書紀、古史古伝などの文献と、現在残る神社とその祭神などからこの島の歴史を調べていくのですが、その観点から見ていくと阿波国、つまり現在の徳島県は非常に興味深い土地なのです。

今回は現在残る神社から阿波国の秘密を探っていきましょう。
まず、そもそも神社というものは届出も許可もなく、別に宗教法人でなくとも個人で誰でも作れます。だからそこに神社があるからどうということではなく、その神社がどのくらい格式を持つ神社なのか調べる必要があります。

今から1100年前の927年、朝廷は延喜式神明帳という有名神社一覧表をまとめました。ここに記載されている神社は少なくとも927年当時に存在し、かつそのはるか昔から由緒のある神社として朝廷に認定されていた神社になります。
この延喜式神明帳に記載のある神社を式内社といいます。
つまり式内社という称号はその神社の由緒の証となるのです。
その式内社は全国に3132座あり、そのうち阿波には50座あります。

次に重要なのはその神社の名称です。有名な神社は全国にいくつもありますが、
神様の名前をそのまま冠にする神社は数えるほどしかありません。
三大神宮と呼ばれる伊勢、鹿島、香取でさえ神社名はその地名からとられています。
そしてその神様の名前を冠にする神社、そのほとんどが阿波に存在します。
有名な神様で一例を挙げますが。
事代主神社、豊玉姫神社、蛭子神社、猿田比古神社。すべて阿波に現存します。
なぜこういった神の名を持つ神社が重要なのかといえば、それは勧請される(分けられる)前の元宮の可能性が非常に高い点にあります。

日本を産んだ神様に伊射奈岐・伊射奈美がいます。伊射奈岐神社の式内社は全国に数カ所ありますが、伊射奈美神社の式内社は全国で唯一、阿波だけにあります。
これは伊射奈美が早くに亡くなってしまったため、その伝承が実際に生活していた阿波にしか残らなかったためだろうと考えられています。

出雲大社や諏訪大社。全国屈指の有名な神社ですね。しかしこれらの本宮は阿波にあります。島根や長野にあるのではなく、阿波にあるのです。
古代史マニアの中では有名な話ですが、現在の出雲大社がそう呼ばれるようになったのは明治時代からです。それまでは杵築大社と呼ばれていました。
また700年代に書かれた出雲国風土記には古事記に描かれる出雲神話が出てきません。アマテラスやオオクニヌシはその名前すら出てきません。
これが何を意味するのかというと、神話に出てくる「出雲」とは現在の島根県を指していないということです。つまり別の場所に「神話の出雲」があったということです。
では「神話の出雲」とはどこにあったのか?
それが阿波なんです。

神話における出雲の国譲り。古事記版をおさらいしてみましょう。

大国主のところへ武甕槌がやってきて国を譲るかどうか問いました。
大国主は自分の子供たちが了承すれば、この国は天津神の御子にお譲りしますと答えました。
大国主の子供、兄の事代主は了承したものの、弟の建御名方は抵抗します。
そしてタケミカヅチと力比べをした建御名方は敗れ、信濃に逃れます。
こうして国津神から天津神への国譲りが行われました。

古事記版出雲の国譲りの登場人物は4人です。
(日本書記版だと武甕槌と経津主のペアで出雲に向かいます)
そしてこの4人全員の名前を冠する式内社が阿波にあるのです。
・八桙神社→八桙とは大国主の別名
・建布都神社→建布都とは武甕槌の別名
・事代主神社→事代主。そのまま
・多祁御奈刀弥神社→健御名方刀美とは建御名方の別の表記

これはすごくないですか?
出雲の国譲り。てっきり島根が舞台だと思っていたら、まさかの阿波!
阿波に出雲があったんです。
阿波古事記研究会という僕が参考にしているホームページがあるのですが、
そこにいくと詳細な地図なども掲載されています。
阿波にある剣山周辺が高天原で、現在の徳島市、鳴門市、阿南市などの海側一帯が出雲国だったそうです。
つまり出雲の国譲りとは阿波国内で起きた出来事で、剣山にいた天津神が麓に降り、海側の地域にいた国津神の国を譲り受ける話なのです。

阿波の古代史を調べていくと、これまでの歴史認識がふっとびます。
学校で習った歴史とは何だったのかと?いつも考えされられます。
でも古史古伝まで読み漁る古代史マニアというものは、そもそも通説で満足できない方々が大半だと思うので、定説が覆るこの驚きと喜びと興奮をわかってもらえると思います。

僕は常々、この島の本当の歴史を知りたいと願っています。
古代史を調べ始めてから、もう早いもので10年経ちます。
そして当初の頃と現在を比べてみると、明らかに環境が変わってきていることを実感します。
10年前と現在では、得られる情報の量と質が格段に違います。
古代史の深部に触れる情報へのアクセスがだいぶ容易になりました。
それはメディアの発達といった単純なものだけではないと思います。
この島のエスタブリッシュメントたちが、情報を開示し始めているような気がするんです。
その情報開示はなにかの目的があってのことでしょう。
近い将来、この島の本当の歴史が役にたつ時がくる。
僕はそう思っています。

話がそれました。とにかく阿波の古代史を調べれば、この島の本当の歴史がわかる気がします。
ただ阿波の古代史研究は阿波古事記研究会の先生方が長年にわたって膨大な論考を展開されていらっしゃいますので、
僕のnoteでは「阿波が日本の始まりだったとして、東国とどう絡んでくるか?」
をテーマに書いていきたいと思います。
阿波と東国。これが関係あるんです。なぜなら阿波忌部が千葉に来てるから。
千葉の南、南房総は古来安房国でしたしね。
今回は長くなってしまったので次の記事で阿波と東国、書いていきたいと思います。





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