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擬態と主体性

近所の木に大きな青虫がいます。木の葉そっくりで見分けがよくつかないのですが、大した擬態です。

虫にとって擬態は外敵から身を守る生存戦略ですが、よくよく考えてみると私自身も毎日擬態していています。

擬態の定義は「他のものに様子や姿を似せること」ですが、常識や周囲に合わせることもそれに当てはまります。

周りに合わせることで自分の身を守っているのですが、同時にそれが自分を縛り付けてもいます。

擬態が度を過ぎると、自分自身がどんどん空洞化して、生きることが非常につまらなくなります。

私はこれまでに何度か転職しているのですが、一番生き生きとしているのは転職した直後です。
そして時が過ぎる、仕事になれると共にどんどんその輝きが失われていきます。

つまり、「日々の行動に対する慣れ」、「固定化された人間関係」、そして「それに合わせようとする 擬態」が人生を窮屈にさせているのだと思います。

人間が死ぬ時に一番後悔することは、「他人の期待に応えようとするばかりの人生ではなく、自分が真に行きたいと思う人生を生きる勇気を持てばよかった」とのことです。

意識をしていないと、擬態自体が目的になってしまいます。

あくまで、自分の人生を如何に主体的に生きるのかがまずは前提にあり、擬態はその手段に過ぎません。

アゲハチョウになれないのであれば、鳥に食われた方がマシ、ある意味虫の方が合理的なのかもしれません。

擬態に疲れたおじさんのつぶやきでした。


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