見出し画像

私は無意識に"健常者"だった


言いたいことが何かあったのだが、
全然言葉として出てこなかった結果、
私が書きたかったその、何か、を
何か、として読者に伝えられる語彙力を
全く持ち合わせていなかった。また、
書いているのが真夜中だったことから
仮にこれを記載した後、
この時言いたかったことを鮮明に思い出して書き直し、添削することができた場合以外は、

おそらくうまく、
この不自由さを"不自由なはずだ"と思い込み、
提言し改善すべきことだとしてしまっている
我のその、身勝手さや、
当事者ではなく、あくまで第三者・傍観者だったり、外からテコ入れできるだけの余裕のある人間だったりする我の、その、"おせっかい"は、確かに有難いことであると同時に、
本当に当事者は、この"おせっかい"を入れないと不幸せな状態で、"おせっかい"を受けたら、その状態が改善するのか、いやそうではないだろう、いう考えを示したいがために書こうとしたこの話は、読んだとて理解しづらい文章となっているかもしれない。

 それでも、仮に全文を書き直さなかった場合、
おそらく、今これを書いている我の、この焦燥感や情熱が冷めてゆくのとともに、よくわからないもののままで書き直すことはできないだろうから、以下、真夜中から明け方に思い付いた原文のまま、投稿する。



 この前置きは、全文書き終えた後に
明け方に付け足したのだけれど、前置きすら
よくわからないみたいになっていないかい?

 それでもこの熱を保ったまま、
いやむしろこの熱こそを、放ちたかったから
以下、眠れずに真夜中に頭に走ったことを綴った文章をそのまま載せる。





 夜眠れずに3:30を過ぎたころ、

 右の後頭部がズキン、ズキンというか、
ギュッとねじきられそうなかんじというか、
ガンと何か殴られたような、


 そのどれとも言い表し難い痛みが走った。


 お得意の妄想癖で、


 「もし仮に脳梗塞がまた起こったら」

 「もし仮にくも膜下出血だったら」と

頭によぎる。そんなことはきっとないけれど、

ほらだって現に、至って元気だし、

 痛みが長い時も時々あるけれど、
こういうのがたまにきても大抵はすぐ消えるし。


 そんな妄想なんて走らせてはいけないのかもしれないし、実際にその病で苦しんでいる人もいるんだとか、お叱りを受けてしまうかもしれないけれど、


 時々そういうことが頭をよぎる。


 すごく疲れてぐったりして眠っていた後、
ふいに目覚めたのに頭や身体が重すぎるとき、


もしまた今、痙攣を起こしてしまったら…


もし、痙攣ではなくて呼吸困難になったら…



最近はもう全然起こさなくなって、
過呼吸もコントロールできる範囲もあるんだ、
なんて思うけれど、2019年とかは過呼吸しょっちゅう起こしたりしていて、そういう時とかも、
もし今発作が起きたら、過呼吸の途中で、痙攣も起こしてしまったら…とか


考えてしまう。

想定と妄想というのは、線引きが怪しいところがある。


私くらいまで想定してしまうのなら、それはもはや妄想と言わざるを得ないかもしれない。


 実際起きるのは、起きたのは、頭痛か、一瞬気を失うことか、身体が重すぎることか、ちょっとした過呼吸くらいのもので命に関わるようなことは、過労で倒れたのを最後に起こっていないし。

 それだって、過労が、そのまま発作で痙攣になったのは、むしろ、身体が命を守ろうとした結果の痙攣だったのだろうと考えると、ずいぶん運がいい。


 まあ、そんなこんなで、時々、頭が痛くなりすぎたり、特に後頭部に違和感を感じたりすると、

時々、「もし、倒れて、今度は脳の異常で、
脚が動かなくなったら」「言葉が話せなくなったら」と想像しすぎてしまう時もある。


 そういう想定をしている時の私は、
そうした「障害」を抱えることとなった自分が、
今以上にさらに何もできなくなったり、「障害」を持っていることで今できることをただ悲しみながら諦めざるを得ない人間なのだと思い込んでいる節があることに気づいた。


 例えば恋愛。

 普段の自分は、「どこに障害を持ってようと人を好きになる気持ちに優劣などなく、尊いものである」と思っているが、いざ自分が身体の障害になり、日常生活を自身の身体のみで自由に動かせなくなると想定したとき、勝手にそれが加わっただけで、「身体の不自由を負い目に感じて恋愛に進めない自分やうまくいかない自分」を想定してしまっているときがある。


 もちろん、実際に障害を持つことで起こる大変なことや今の私に想像できない苦労や苦しみはあるのだろうけれど、「身体不自由だから、恋愛ができない」なんてことはないし、「身体不自由だから、絶対にうまくいかない」なんてこともない。


 逆に、特段、現在身体で日常生活を送る際に、
不便すぎるほどの不自由さを持っていない私が、
恋愛がうまくいってるわけでもない。


 それなのに、障害があるから勇気を出せない、みたいに思ってしまうような、

そんな想定しているとき、私は
なぜか、良い方に妄想が働かず、そういうかわいそうな、悲しい想定を無意識にしている時がある。



 それで、今、この3:30過ぎから、考えている間に4:00前になった今、


そういうふうに考えている自分が、
突然、客観視され、


もし倒れたら、もし更なる障害を負ったら、それを理由に進路に踏み出せない、それを理由に今まで好きだった誰かに会いたくない、会えない、と思うのは、もしかしたら、なかにはそういう人ももちろんいるかもしれないけれど、だから絶対に、そんなことはないとまでは言わないけれど、

でも、この想定をしている今の私は、確実に
その"障害"を持ったことで何かを諦めなくてはいけないんだと思い込んでいて、なんかそれって、まるで今の自分とは変わってしまった"その障害"を持った自分は、かわいそうな人だと思い込んで被害者意識を持とうとしているような気がして、

そう思ったら、え、そういうことを考えている時の私、すごく、自分のことを、無意識のうちに、「私は確実に"障害者"ではない立場だ」と思い込んでいるということだよね、


 とわかってしまったのだ。


 私は、五体満足で、恋愛においても結婚においても異性愛者で、だから社会的には、外部からの障壁なくこれからも進められれば進められる。たしかに持病もあるし、左半身はやや麻痺があるけれど、それでも日常生活をそれなりにその他大勢の人とそこまで大差なく28年間同じように?送ってきた私は、無意識のうちに自分の今の世界が、今持っているものを持っていることが当たり前になっていて、それを失うかもしれない自分では、不足が生じて、その不足のせいで、その不足だけが理由で恋愛する時好きな人に好きだというのは躊躇われるとかを、無意識のうちに前提にしてしまっている。


そういう私は妄想で
無意識のうちに自分を健常者に分類していて、
だから、
その不足が生まれることによって障害者になったら、障害者だから、○○ができない

と実は、頭の奥底のどこかで勝手に思い込んでいるのではないか。そんなこと考えているなんて思っていなかったのに、そう無意識のうちに考えてしまっているかもしれないと思ったら、突然自分が嫌な人間に思えた。
(今回は例に身体の不足を挙げているが、それ以外も含めてです。)


 真夜中というか、これを書いている間に、
明け方になってしまったが、そんなことが頭によぎった。


 もちろん例えば過労などで倒れて、言葉をうまく使えなくなるかもしれない、脳のダメージの部位によるけど、耳が聞こえなくなるかもしれないし、左手足が今みたいな軽麻痺ではなくて、本当に使えなくなるかもしれないし、右の手足に麻痺が出るかもしれないし、部位によってどんなふうになるかは全く異なるわけだけど、

脳がずきんずきんと痛む時、
もし倒れたらと想定した時、もし障害が出たらと想定している時、


その新たに生まれる障害が理由で
人の目が気になる私、や
困難に出会う私、を初めて描き出した。


実は今まで、
学生の頃から、障害と社会について少し考えてきて「障害は、社会のシステムや社会の側で是正できるものだ」と強く思い、
「障害があるからという理由で何かを諦めなくてはならないなんて、そんなのはいけない」と正義を信じていた自分に今さらきちんと気づく。



そう思ってきたけれど、
妄想と言えるほどの想像を働かせていた私は
自分がその"障害"を抱えたら

"障害"があったって気にしないとか、
あなたのせいではないとか、そんなことを言われたって、仮に自分の責任じゃないと頭でわかっていたって、

ただ、身体が動かなくなったことが、
ただ今までの私のように話せないことが理由で


好きだと思う人に会うことを、
素敵だと思っている友人と対面することを、
外に出てどこかに出かけることを、

恐れている自分がいた。


それだけじゃない。


例えば、身体麻痺が今みたいな、
日常生活に支障ない程度ではなくて、
もっと、身体が動かない場合、


今みたいに、

ちょっと散歩しよう、とか

行ってみたいイベントがあるから新宿までいこうとか、


そんなこと、気軽に言えなくなる気がした。


もちろん、それが身体の不自由さが理由であれば

私に非がないことは、頭ではわかっていても。



そして、そういう妄想に至った時、


その妄想というのは、

ある人のある場面にとっては真実であり、


また別の人の日常にとっては全くの的外れなのではないかと考え始めた。


 つまり、私は身体不自由が、日常生活を"健常者のようにスムーズに"送るということは、難しいことだから、と想定してしまったわけだが


私は身体不自由を理由に、恋愛に踏み出すときに、私だったら負い目というか引け目に感じてしまうかも、と想定したわけだが、


それは、ある人にとっては確かにそう、かもしれないけれど、また別のある人からしたら

いや、私、好きな人に好きって言いますけど?

確かに不自由さを感じる時は多々あって是正してほしいところだけど、全然楽しく遠出できますけど?


という人もいるはずなのだ。


 脚が不自由だから、こうなるだろうと
妄想してしまっているそれが必ずしも、
100人にとっての真実ではない。


 例えば私が「言葉が話せなくなったら」と想定した、それが実際に起きたとして、

もちろん不自由はあるかもしれない、
今の私では全く想定できない苦労も辛いことも、
今は無意識に享受している"当たり前"を得られなくなることもあるかもしれない。


そして、それは、やはり一種の不自由さにつながるし、今私が"当たり前"だとして意識にものぼらずに享受している何かを得られないということは、それだけで機会損失になったり、不利益を被ることは多いだろう。けれども、それだけが理由で、

だから絶対不幸な人生になる


とか

だから絶対辛い

なんてことはないはずだ。


 わかっているのに、

 もし仮に今持っている何かが"欠落"した、
と想定している時、


 私は私自身を、今よりかわいそうだと、

その"欠落"を持っただけでなんだか自分がそこにいるのが申し訳ないような、


 そんな前提で描いてしまっていた。



 そう思ってしまっている自分を、
ひとつひとつ突然目の前に
妄想して、それから冷静に考えた時に、


現在生きている私は、
なんて無意識に健常者なんだ、と頭をすこーんと
叩かれた感じがした。


 左上下肢に麻痺が残っている

 てんかん持ちである

 右脳の後頭部のどこぞやは赤ん坊の頃から壊死したそのままである


 そういう一つ一つの私の持つ事実は、
私を障害者たらしめているように見えるけれど、


 てんかんでさえ、薬で抑えられていて、

てんかんが理由なのか何が理由なのかわからない倦怠感や倒れる前までは起きたことのない数秒の意識消失だとかそんなことはあっても、日々の日常生活を送ることに、家の中でも、玄関から外でも、ほとんど何も障壁も(ここでいう障壁は、例えば、自由にどこまででもいけるとか、なんでも見えるとか、勉学において例えばディスレクシアの方々の認識の世界での労苦だとかを一例にします)なく生きられていて、無意識に呼吸し、無意識に身体を動かしたいように動かすことができ、行きたいところに行けて、人とのコミュニケーションに著しく困難を抱えるという労苦もない私は、


 そういう労苦を感じずに生きられている自分の世界を、"当たり前"だと思っていて、そういう立場にいるからこそ、その労苦を抱える誰かのために
不足や労苦は是正すべきものであり、それをなくすことが正義だと無意識に思い込んでいたのかもしれない。


 だって、頭の中では仮に麻痺があろうと、
学びに困難があろうと、それだけが理由で
恋愛や人生すべてがうまくいかないこともなけらば、愛されないなんてことなんかないって、
思っているはずなのに、


 自分が今抱えている精神疾患や、
身体の軽麻痺を強く考えた時に、これが理由で好きな人に嫌がられるかも、とか重いと思われるかもとか、恋愛うまくいかないかもとか、もし打ち明けてダメになったらとか、


まだ存在していない悪い想定ばかりしてきたんだもん。

 「障害」を持っていることだけで
諦めなきゃならないことがあるなんて、
それならその「障害」というのは
社会のシステムとか人々の認識とかで
もっと生きやすくできるものかもしれないから
そういうふうにしていこうよ、


と思っている自分がいるはずなのに、


その実、


起きてもいない想定のしすぎのなかで、
自分の不足、欠落 を理由として何かがうまくいかないんじゃないかと思い込み過ぎている時の私は、無意識に、その不足や欠落を、仮に今欠落していたら、と考えている時点で、自分はそれさえなければ欠落していないと認識していることとなるし、
何かうまくいかなくなることの理由にその不足を想定するということは、無意識的に、不足していたらうまくいかないものだ、欠落していたら今持っている当たり前が過ごせなくて、それが理由で幸せではなくなるのだ、と思い込んでいるからこそそういう考えが生まれたものなのではないかとよぎった。

突如、自分が、今、無意識に、その不足を日常ではないもの、あり得ないことと前提にして考えている、「健常者」という立場に立っていることを前提にしていたのではとはっとした。



 「世界には恵まれない人がいる。そういう人たちもいるんだと知って感謝しよう」と幼い頃から両親は言っていた。
 海外生活の中で確かに目の前に貧困を見たし、貧困によって選択肢がない、というのは確かに是正すべき社会の課題である、それは間違いない。一方で、貧困の中生きる人々は、ある種の恵まれなさに直面しているだろう事実があったとして、それでもだ、それでも、その外側の傍観者でいた"恵まれた私たち"が、
「恵まれない人」と彼らのことを口にするとき、前提としてどこかで恵まれないことは異常だとそれをなくすことが正義だと考えていて、それは恵まれた我らのような状態になるのが正解だと無意識に思い込んでいるといおうか、その恵まれなさという不足を持っていないことが、前提であり健常、で、"彼らも我ら健常に近づくのが良いことだ、正義だ"という考え方が、無意識下にあるのではないだろうか。


 確かに、貧困は機会損失を生むし、現状
経済的貧困は環境や教育における貧困を生み出し、それらは再生産されて(家庭環境が理由で十分な教育や環境を与えられなかった人が、教育を受けられなかったが故に、選べる選択肢がはじめから限られていて、例えば勉学できないことで、進学できないことで、低所得な仕事や日銭を稼いでいくのが精一杯な職環境にしか就けず)再び経済的貧困から(その人が家庭を持ち子どもに恵まれたとして、その子どもに与えられる環境が限られてしまったら)教育の貧困を生み出し、それらはメスが入らない限り永遠に再生産される。


 それが社会問題であり、世界的問題であり、
わかりやすく指標で示すなら、SDGsの第4の目標「質の高い教育をみんなに」や第1の目標「貧困をなくそう」などで解決を目指そうとしているのは、その、負の再生産を、もっと世界の皆で考え直していこうよ、という問いかけである。これは間違えているわけではない。


 けれど、それらを是正しよう!と立ち上がり、
その立ち上がる人たち、「彼らはかわいそうだ、彼らの状況は不自由だ」と是正措置を講じたり考えたり、社会問題だ、などといえる立場の人々はいつだって、
それなりに安全で良い環境で過ごしてきて、良い教育を受け、経済的貧困で今日食べる食べ物のために働く子どもたちだった過去もない、あくまで"健常"の側から、今の世の中は、彼らの状態は"異常"だから是正するんだ!と意識的にしろ、無意識的にしろ正義感を持って行動している側の人たちだったりするのではないだろうか。それが、いけないことなのではなくて。


そして、その"恵まれない貧困"にいる人は、
そういう人たちによって、知らず識らずに、
"異常"な環境にいる、是正してあげなければならない環境にいる人たち、と認定されているのではないだろうか。


 うまくは説明できないのだけれど、

私もこれまで、何かが欠落していると
それが故に不幸なこと、や
それが故に困難なこと、
だから、あってほしくない現実を考え、
自分に起きた欠落不足によって持てない幸せ、
失う当たり前、を感じて、もがいてきた。


 それらによって起こる労苦や差別や障壁は、
社会で是正していってほしいと、確かに願っているし、社会が是正すべきだと考えている。

 一方で、障害を持ってしまったら好きに恋愛ができないとか、貧困に生まれたからかわいそう、というのはみんながそうではないから事実ではないと思う。



 だから、そういった類のことを考えてしまっている時、感じている時の私がいたら、

その時の私は、無意識に自身を"健常者"とし、
自身の得られている何かを持てない誰かを、
無意識に"彼らは今は欠落の状態だから、
私と同じように得られるようにすべきだ、と
もしくは今まで持っていた何かが欠落した我を
今が異常だ、と
無意識下で思っているのかもしれない。

私のような人にそう思われているとき、
現実に生きる彼らは、
確かに苦労しても、変わってほしいと願っているのが確かでも、それでも愛おしい目の前の日常である、その今の状態を勝手に、欠落だと、テコ入れすべきことだと、される。

 別に、私が精神疾患を抱えているただそれだけで幸せな恋愛ができないわけじゃないはずなのに、勝手に億劫になっている時の思い込みと、ほとんど同じように。


 そして、私は、ああ、私も、
無意識に健常者 だったのだ

と、思い知らされた。

#健常

#障害

#障害者


#障壁

#貧困

#思い込みが変わったこと

ありがとうございます😊サポートしていただいたお金は、勉強のための書籍費、「教育から社会を変える」を実現するための資金に使わせていただきます。