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アイルランド建国の父の夢のあと――「ピアース・ミュージアム」訪問記

ガバガバアイルランド旅行記第2弾。今回は、あまりにもニッチすぎる施設「ピアース・ミュージアム(Pearse Museum)」について紹介する。

ピアース・ミュージアムとは、イースター蜂起の指導者パトリック・ピアースが設立した学校跡に作られた、彼の記念館である(イースター蜂起って何だよという方は、前の旅行記に目を通されたし)。

ダブリン市の郊外、聖エンダ公園の敷地内にあり、ダブリン中心部からはバスで30分程度で行ける。交通費は行き2.10ユーロ、帰りは2.86ユーロだった。なぜ行きと帰りで値段が違ったのかは永遠の謎。

「Rathfarnham Grange Road, Hermitage Avenue」という停留所で降りたあと、住宅を背にして反対側の歩道に渡り、左へ行くと公園の小さな入り口がある。道に沿って歩けば、とても美しい聖エンダ公園が目の前に広がる。

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さて、ピアース・ミュージアムについて紹介する前に、パトリック・ピアースがこの学校を作った経緯を説明しよう。

パトリック・ピアースという人物は、一般に急進的な革命指導者として知られているが、教育者、詩人、編集者の顔も持っていた。パトリックがこれら文化人としての顔を持った最大の理由は、ゲール語(アイルランド語)の普及にある。

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当時のアイルランドは大英帝国による強い支配下にあり、ゲール語を話す地域は年々減少、大多数のアイルランド人が英語で書かれた書物を読むようになり、アイルランドの文化や伝統は古臭いものと考えられるようになっていた。

パトリックは幼少期より、大叔母からアイルランドの昔話を聞いて育ったことに加え、周囲に「イギリス人」として扱われたことから、ゲール語やアイルランド文化に対する愛着は人一倍であった(彼の父はイギリス人)。

彼はゲール語の復興を目指す団体「ゲール語連盟」に加入して以降、ますますゲールの古い文化にのめり込んでいった。

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パトリックは友人が少なく、女性にも関心がない偏屈者として扱われたが、物事を理想化し追求することに関しては、天才的な素質を備えていた。1908年9月、パトリックは子供向けのゲール語教材などを出版したのち、5つの理想を掲げた男子中学校「聖エンダ校」を設立した。その理想とは以下のようなものである。

①英語とゲール語の二語併用を可能にする

②カトリック教会の影響力を排除する

③体罰を排除し、自由で強制されないインスピレーションにみちた学校にする

④独立国アイルランドを当然とみなす精神を育てる

⑤学者よりも奉仕(service)の精神をもった良い人間を養成する

学校としての評判は実に上々で、詩人ウィリアム・バトラー・イェイツなどの一流文化人が特別講義に来るほどであった。しかし、人気に比例して生徒数はどんどん増え、市内中心部にある学校では手狭になってしまった。

そこでパトリックは、広く、静かで、一流の環境を持つ教育の場を探し始めた。そして1910年の秋、聖エンダ校をダブリンの郊外に移転した。

その場所こそが、今回訪れたピアース・ミュージアムのある学校跡なのだ。

…ちなみに、聖エンダ校はイースター蜂起の直前まで運営されていたものの、赤字続きで移転前とは裏腹に生徒数は年々減少。最盛期には130人いた生徒が、1916年では28人にまで減っていた。パトリックは教育者として実に熱心に活動したが、資金繰りに関してはガバガバだったのだ。

ピアースと生徒たちの面影が残る聖エンダ学校

さて、長い説明を終えたので、施設の内部について詳しく紹介しよう。

聖エンダ公園に入ると、すぐに建物が見えてくる。それがピアース・ミュージアムの入り口だ。中庭を通り、道なりに進んでいく。ちなみに中庭にはカフェが併設されているので、静かな環境でまったりお茶をすることもできる。

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中庭を通り抜けると、イギリス風の美しい庭園が目の前に現れる。庭園中央にある噴水の周りには、パトリックの詩を刻んだ石が埋められている。

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庭を一通り見学し、ピアース・ミュージアムの受付へ向かう。受付では、説明係のおばさんが見学順路を説明しつつ、明らかにお上りな我々を見て早口でパトリックのプロフィールを語ってくれた。しかし、我々は英会話力がどん底なため、適当に受け流しチケットをいただく(入場料は無料)。

ピアース・ミュージアムは3階建て。3階→2階→1階の順で見学していく。

まず3階へ。3階では近代アートの特別展が開催されており、特にピアース関係で目を引くものはなかった。早々に退散。

次に2階へ。こちらでは、聖エンダ学校の内部が当時の姿のまま保存されている。保存状態が良く、とても大切にされていることが分かる。

こちらは共同寝室。

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廊下。

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おそらく、生徒たちによる昆虫標本等の作品棚。

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ホール。

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チャペル。

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パトリックの書斎。

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居間。手前にあるハープは、パトリックが妹メアリーに買ってやったものだ。

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クー・フリンの衣装を身につけた生徒や、クリケットチームの写真などもそこかしこに飾られている。

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他にも写真を撮り忘れたが、パトリック・ピアースの弟ウィリアム・ピアースの作品ルームもある。

パトリックの実弟ウィリアムは、この聖エンダ学校で美術の教師をしていた。生徒からの人気も高い、とても評判の教師だったらしい。

パトリックとウィリアムは異常に仲の良い兄弟で、パトリックは「この世で心を許せる友はお前だけだった。他の者は必要なかった」とまで言っている。とんだブラコンである。またウィリアムは、金遣いのガバガバな兄に代わり、学校の運営面でも大いに兄を支えていたようだ。

そんなウィリアムも、イースター蜂起に参加し、兄と同じく処刑されてしまう。最期まで兄に寄り添い続けたウィリアムの生涯に、涙せずにはいられない。

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ちなみに、クー・フリンの有名なセリフ「もしわたしの名と行動が後世に生き残るならば、わたしは一昼夜しか生きなくてもかまわない」をアイルランド語で刻んだフレスコ画があると聞いたのだが、これを発見することはできなかった。どうやらこのフレスコ画は、移転前の校舎にあった物のようだ。

ピアースの謎に満ちた生涯&人となりを探る

さて、2階を一通り見終わったので1階へと向かう。1階では、パトリック・ピアースの生涯、思想に関する説明や、遺品などの展示がされている。その筋の人なら気絶するほど興奮できるだろう。

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パトリック手書きの時間割表。どことなく神経質な性格を匂わせる筆跡。教科はキリスト教学、ラテン語、フランス語、アイルランド語、英語、算数、美術、自然研究が中心で、日によって体育や木工、ハーリングの時間もある。

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学校で実際に使用していたアイルランド語の教材。表紙には、戦車に乗るクー・フリンと御者ロイグが描かれている。前述した通り、彼は幼少期の体験からアイルランドの伝承、とりわけクー・フリンを心から敬愛していた。パトリックの元生徒の一人は、クー・フリンを「目には見えないが大切な教員のひとり」と話していたそうだ。

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こちらは、ピアース兄弟が家族との最後の食卓で使用したカップ。ミュージアム内に展示されている、ピアース兄弟の姉マーガレットの証言が物悲しい。

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お茶を飲んで少し話をしたあと、二人はまた準備をして出かけて行きました。すると、玄関ホールを通り抜けようとしていたパット(パトリック)が突然戻ってきて、再び階段を降りて行ったのです。母は「何か忘れ物?」と尋ねました。彼は「I did」とだけ言いました。戻ってきた彼に、母か私のどちらかが「忘れ物は見つかった?」と尋ねました。–– 彼が何を忘れていたのかは分かりません –– 彼は「I did」とだけ答えました。それが、私が聞いた彼の最後の言葉でした。

施設内には、元生徒や元秘書などが語った「パトリック・ピアースの印象」を記したパネルが所々に設置されている。一部を読んでみると、意外にも近しい人々からの印象は良いことが分かる。

「とても優しく、礼儀正しい人だった」

「彼が体罰に頼ることはほとんどなかった」

「気さくで素敵な人だった」

「図体は大きいが、顔の青白いシャイな男だった」…

パトリックは、蜂起メンバーからは政治オンチの右派として最後まで信頼されなかった。また、傲慢だ、反聖職権主義者などと個人的な批判も多く受けた。媒体によっては、「自殺願望のある子供」「狂人」など散々な言われようである。

しかし、元生徒たちの発言から、そのような側面を感じることはできない。変わり者であることは確かなようだが、真っ二つに割れた評価は、パトリック・ピアースという人間の複雑さを如実に表していると言える。

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以上、ピアース・ミュージアムの紹介であった。

大変マイナーな施設ではあるが、無料にも関わらず展示が充実しており、パトリック・ピアースのことをよく知らなくても楽しめる場所となっている。市内中心部からも近いので、時間があればぜひ訪れてみてほしい。

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参考資料

ピアース・ミュージアム公式サイト

ウィリアム・ピアース(Wikipedia)


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