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JINSの経営メンバーであった私がPatheeで何を成し遂げたいのか? <前編>

はじめまして

Patheeの副社長の冨田です。
2020年1月よりPatheeに参画しました。

noteへの初めての投稿なので、私自身の自己紹介と、Patheeにジョインした経緯を最初の記事にしたいと思います。
コロナウィルスの影響でPatheeもリモートワークに移行しており、自宅での作業ということで、少し余裕もできたので、過去のことも思い出しながら書いていたら、9,000字に迫る大作になってしまいました。
なので、2回に分けてお届けしたいと思います。

JINS入社にいたるまで

私が社会人になったのは1998年です。
景気が低迷し就職氷河期と呼ばれていた反面、インターネット普及の黎明期ということもあり、今では大企業になっている日本のインターネット企業が多く生まれた時期でもあります。有名どころでいえば、97年に楽天、98年に一休やスタートトゥデイやサイバーエージェント、99年にDeNA(当時はビッダーズというECを運営する企業でした)、などが創業された時期です。
ただ、当時はまだITやインターネットという言葉は一般的ではなく、インターネットなんて海のものとも山のものとも分からないと言われていた時代でした。
そこに可能性を感じて、漕ぎ出した起業家の方達は本当にすごいなと思います。

少し遡って就職前の大学時代の話をすると、私は体育会のアメリカンフットボール部に所属していたこともあり、3年次から必修となるゼミは、部活と両立できる楽なところを選びたいという不純な動機で選びました。たまたま、そこがコンピューターサイエンスのゼミで、そういう消極的選択が、今の自分の仕事にもつながっていると思うと、不思議な感じです。

ゼミに入った1996年というのは、インターネットをほんの一部の人が使い始めたぐらいの時期でした。ほとんどの企業がまだWebサイトも持っておらず、昔からあったパソコン通信のグローバル版といった感じで(私自身は、パソコン通信はやったことがないのですが)、名実ともにオタクが集う場所であり、今とは比べものにならないくらいアングラな情報が、そこかしこに転がっている環境でした。ゼミでは電子図書館といった概念の研究や、C言語の基礎などを学んでいましたが、ほどなく研究室で使えるインターネットというものに魅了されました。

初期のHTMLを学び、自分のWebサイトを作ったりもしていました。
研究室からではなく、自宅からもインターネットにつないでみたくなり、大学入学時に親に買ってもらったMacをひさしぶりに起動し、家電量販店で28.8Kのモデムを購入し接続してみました。そして、インターネットプロバイダと契約し、電話代の節約のためにテレホーダイという夜11時以降は定額でかけ放題になるというサービスに入りました。
今の私の自宅の光回線と比較すると、1万倍くらい遅い回線ですが、それにもめげず怪しいインターネットの世界を徘徊していました。
(そんなに帯域を消費するようなコンテンツはあまりなく、ほとんどがテキストベースで、いわゆるエロサイトでも非常に画質を落として圧縮した画像だけ、というような時代でした。)

アメフト部の仲間達は、どちらかというと銀行や商社、保険会社といった大企業に就職する人たちが多かったのですが、ゼミではIT企業に就職するという人も多く、またそもそも大企業に自分が向いていないのではないかと思っていたこともあり、ITとベンチャーというキーワードで会社を探していました。
結果、新卒で当時は未上場だったフューチャーシステムコンサルティング(現フューチャーアーキテクト)に内定を頂き、社会人人生を歩み始めることになりました。

最初に入った会社では、小売業を中心にITに関するコンサルティングとシステム開発に従事していました。
クライアント企業は地方を拠点とする中堅チェーンの小売業が多く、ホームセンターやドラッグストアといった業態のクライアント企業の本部に常駐しながら、主にデータ分析系のシステムの設計・開発を行っていました。当時は情報系システムと呼ばれていましたが、今ではビジネスインテリジェンスとか、データサイエンスとか呼ばれている領域です。
私は都会育ちということもあり、社会人になって、ホームセンターのクライアントのプロジェクトに配属されるまで、ホームセンターという形態の店舗が存在することすら知りませんでした。そんな状況でしたが、いくつかの小売業のお客様の仕事を経験するうちに、小売業向けの情報システムだけではなく、小売の経営や事業そのものについても理解が深まっていき、それが後に入社するJINSでも活きたと思います。
ベンチャー、小売、デジタル、という私のキャリアの軸は、最初に入った会社によって形作られたのは間違いありません。

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JINS時代からPatheeと出会うまで

フューチャーシステムコンサルティングからベンチャーキャピタルを経て、2008年にJINSというメガネ屋に就職しました。今と比較するとまったく知名度もなく、関東圏でのブランド認知率は0.8%という、ほぼ誰も知らない会社でした。私自身も転職候補先として紹介されても、そういうメガネ屋さんがあるということ自体まったく知らなかったですし、大学時代からの友人に転職する旨を知らせても、相変わらずよく分からない会社に入る奴だな、と言われるぐらいの知名度でした。長女が産まれる月に、そんなよく分からない会社に転職したこともあり、妻からはえらい不安定な奴と結婚してしまったと思われていたに違いありません。

JINSは当時のヘラクレス市場に上場して1年すこし経った頃でしたが、その前後から小売業にとっての重要指標である既存店昨年比は100%を割り続けており、入社した年の決算では最終赤字を計上し、2008年のリーマンショックも相まって、時価総額は一桁億円まで落ち込む状況でした。
上場廃止基準に抵触するレベルまで時価総額が落ち込んだものの、リーマンショックの影響で上場廃止基準が緩和されたことによりそこに抵触せずに済んだ、といったようなレベルでした。

ただ、結果的には、そういった状況の会社に入社したことは、私自身にとっては大きなチャンスとなりました。
小売業向けのコンサルティングに従事していた経験を活かし、事業を改善するための提案を色々と行い、実際に施策として落とし込んで、現場を巻き込んで仕組みとして埋め込んでいく、といったことをやらせてもらうことができたからです。
会社がそれなりにうまく回っているときには、おそらく上述のような提案をしても、必要性を感じてもらうのは難しかったかもしれないですし、仮に実施していたとしても、経営陣や現場のスタッフに効果を体感してもらうほどの成果を出すのも難しかったと思います。
調子が悪い時期だったからこそ、薬も効きやすい状況だったと思っています。なので、あの時期のJINSに参画できたのは、私自身にとっても会社にとっても運が良かったのだと思います。

そういった貢献を通じて、2008年から2009年にかけての事業改革による復活に貢献をしたということで、会社からも評価をして頂き、2009年12月には経営企画担当の執行役員に抜擢されました。その後も、商品企画・調達・物流・店舗オペレーション・人事・マーケティングなど、小売業を支えるバリューチェーンの要素一つひとつについて、課題解決のために非常に深く入り込んで試行錯誤を行うという機会を頂きました。
マネジメントという意味では、日本の事業を統括する事業部長をやらせて頂いたり、米国の現地法人社長として旗艦店立ち上げなども経験させて頂きました。
JINS全体としても、私が入社する直前の2007年8月期末には33店舗だった店舗数も、退職した年の2015年8月期末には日本だけで287店舗になり、株価が一番低迷していた2008年12月頃には40円台だった株価が、退職する2015年4月頃には4,000円台になっていました。

JINS復活の物語は、JINSの田中社長が書籍なども出されたり、Webや雑誌のインタビューなどでもお話しされていますが、それが実務担当者の目からはどう見えていたのかというような話や、その後の急成長時に起きたピンチの話、米国進出の際のよもやま話なんかも、そのうち、noteの記事に書いていけたらよいなと思っています。JINS退職後は、コンテンツ企業、EC企業などを経て、2020年1月よりPatheeに参画しています。

後編は、小売業のデジタル化に課題を感じた私が Patheeにどういう未来を見たのか、という点をご紹介します。