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過去を振り返りながら生きよう

 人は誰しもが過去に傷を抱きながら生きている。映画『ベスト・キッド』の続編的なドラマ『コブラ会』の冒頭では、元不良のジョニーは空手大会の決勝で散々イジメていたダニエルに無惨に負けたことをおっさんになった今でも引きずり、優勝したダニエルはジョニーにイジメられた過去を成功したセレブになった今でも思い出す場面が出てくる。
 親からの虐待、DV、イジメ、性的暴行、戦争被害、震災による災害…これらの被害を受けた心の傷はいかばかりだろうか。私も里親のひとりとして、とても他人事ではない。私もイジメられたりパワハラにあった経験もある。

 こうした心の痛みに対して
「過去を振り返らず前に進みましょう」
「過去でもなく、未来でもなく、今この時を精いっぱい生きましょう」
「いつまでも被害者のポジションに居続けてはいけません」

などという声を聴く。どれも正論ではあろう。だが、いずれも当事者の心には響かないことは確かだ。それどころが、キリスト者がこのようなことを語るのは、かえって当事者を追い詰めるだけではないだろうか。「そのように考えられない自分はダメなのだ」と。

 まだ20代の頃に聞いた先輩牧師の説教の中の一説がいまも心に残っている。
「人間は未来を前向きに生きている存在ではない。さしづめ過去を見つめながら、後ろ向きに前へ進んでいく存在なのではないか」
 この言葉の意味を50代半ばになった今、重く噛みしめている。これだけ多くの人が過去に悩み苦しみながら生きている、ということは、そもそも人間は「過去を振り返らずに前向きに生きることなど、不可能なように造られている」のではないだろうか?少なくとも私はそう思う。

 では人間は過去に苦しめられながら生きるしかないのだろうか?決してそうではない。苦しんでいたとしても、あなたの過去に違う光を当てることは可能ではないだろうか?その過去の傷や悲しみはたしかに今も深くある。しかし苦しくとも生き続けてきた貴方の人生を思い起こしてほしい。そこに何らかの人生の意味を見いだせたならば、希望が少しずつ生まれてくるのではないか。これは認知行動療法でいうところの「コラム法」のような手法といえるかもしれない。

 福音書にはキリストに癒された人々が描かれる。それまで障害や心の病に苦しめられ、罪人だと蔑まれてきた人々は、癒された途端に過去を忘れて前向きに生きることができたのだろうか?差別から解放されスッキリと毎日を生きることが出来たのだろうか?そうは思えない。相変わらず街の中で差別はあり、病が癒されたとしても周囲の偏見は変わらずあっただろう。
 ただ、彼らの人生の中にイエス・キリストが訪れた。それは彼らの中に変革をもたらしただろう。彼らの見る景色も、周囲の人々もそれまでとは変わったはずだ。

 過去に縛られて生きていてもいいのだ。忘れることが難しいのであれば。ただその過去を違う色をつけてみよう。違う光を当ててみよう。私にとってはその違う色、違う光はイエス・キリストに他ならない。

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