#1 サッカーなんてやったら、女の子なのに日に焼けるやろ
「習い事したいんだけど」
夕飯を食べ終えて、スマホで漫画を読んでいる夫に言った。
「いいんじゃない?何するの。運動不足だからヨガとかいいんじゃない」
スマホから目を離さないまま、夫が言う。
「ヨガじゃない。サッカーがやりたい」
そう言うと夫は顔を上げて、「いいじゃん」と笑った。
世界中がワールドカップで白熱しているさなか、私は近所のドン・キホーテでサッカーボールを買った。
「女の子らしく」を強要する母
何かを選択する基準が「母がどう反応するか」になったのは、幼少期の頃かもしれない。
母はよく「女の子らしくしなさい」と言った。
兄と同じ、アディダスの三本線が入ったジャージやダボダボのトレーナーが着たかったけれど、どれだけイヤだと抵抗してもスカートやタイツを履かせた。
メンズライクな服を欲しがると「みっともない!」「せっかく女の子に産んだのに楽しくない!」などと怒鳴り、不機嫌になる。
ガンダムや戦隊モノのおもちゃがほしくても、私に与えられるのはリカちゃん人形。「ガンダムがよかった」と泣きながらリカちゃんの頭を掴んで放り投げ、母に怒鳴り散らされたのは幼稚園の頃の記憶だ。
小学校2年生になるまで一度も切らせてくれなかった髪の毛は、膝まで伸びて不気味だった。「可愛いから」と、母は毎朝私の長い髪を三つ編みにして、赤やピンクの髪飾りをつける。私は早く切りたくてしょうがなかったけど、周りの大人から「娘さん、おさげが可愛いね」と言われ満足そうにしている母の顔を見ていると、切りたいとはいえなかった。
とにかく母は、娘を自分の思い通りの姿にしようと必死だったのだ。こんな出来事が続くうちに、母の機嫌を損ねないよう、母が喜びそうな選択をするようになっていた。
「サッカーなんてやったら、女の子なのに日に焼けるやろ!しつこいな!」
小学校3年生のとき、学校で仲の良い男の子たちとサッカーを始めた。クラブチームでプレーしている彼らに教えてもらいながら練習していると、だんだんとボールを思い通りに扱えるようになっていく。私はサッカーに夢中になった。
ゴールを決めたときの興奮や、パスがキレイに通ったときの爽快感、冬場にグラウンドを走り回って胸が痛くなる感覚を今でも鮮明に覚えている。
そのうち、一緒にサッカーをしていた友達やその保護者から、「クラブチームに入りなよ」「一緒にやろうよ」と声をかけられるようになった。
やりたい、母に話そう。
母の機嫌が良さそうなときを今か今かとうかがってやっと切り出せたのは、話すと決めてから何日目だっただろうか。
「そういうのって親の付き添いとか必要でしょ。面倒だからいや」
母は冷蔵庫をあけながら言い捨てた。こちらを見ようともしなかった。母は昔から、都合の悪い話をするときに私の目を見ない。
いつもなら諦めていたかもしれないけど、そのときは食い下がった。
「サッカーなんてやったら、女の子なのに日に焼けるやろ!しつこいな!」と怒鳴られ、それ以上言えなくなった。怒鳴る母の顔を見ると胸が苦しくなり、私はいつも言葉が出なくなってしまう。
なんでダメなの?これくらいやらせてよ。今まで我慢して言う通りにしてきたじゃん。
言いたかったけど、言えなかった。次は殴られるかもしれない。
頑なに拒否する状態の母が今後「いいよ」と言うことは絶対にないと、子どもながらにわかった。あきらめるしかない。
休日になるたび、小学校のグラウンドで行われるクラブチームの練習をフェンス越しに見るようになった。友だちの活躍に、「ナイスシュー」などと一人でつぶやいては、さみしさを感じた。あの赤いユニフォームを着てグラウンドに立つことは絶対に叶わない。
私は母にお願いした。「クラブチームはあきらめる。サッカーシューズだけ買ってほしい」。母は「また男みたいなものほしがって」と心底嫌そうに言いながら、しぶしぶ靴屋に連れていってくれた。
いつも母に決められた可愛らしい靴ばかり履いていたけれど、その日は自分で選んだ。黒地に青のラインが入ったシューズだ。帰宅早々玄関におろして、しばらく眺めていた。
初めて学校に履いていった日は、今でも覚えている。友だちから「靴買ったんだ!」と言われるたびに、なんだか誇らしくて、それでいて照れくさくて青のラインに目を落とした。
それからも毎日のようにお気に入りのシューズを履いてサッカーをしていたけれど、彼らと一緒に行動する頻度は徐々に減っていった。追いつけないほど上達していく彼らを後目に、5年生になる頃には、私だけがサッカーから遠ざかっていた。
母との歪な共依存関係
大人になってから「サッカーをやりたい」と思っていた、あの気持ちを思い出すことがある。あれだけの熱量で「やりたい!」と思えることは、あれ以来なかった。
いや、本当はあったのかもしれない。いつからか、自分が何をしたいのか、何が好きなのか、見失っていたように思う。母の言動や行動に思考が支配されて「母がどう反応するか」を考えることから抜け出せなくなっていた。
社会人になり、自分で稼げるようになってからもそうだ。服一着買うにしても、母に「ベージュでロング丈のコートなんだけど、どう思う?」とわざわざ店を出て電話して、「いいんじゃない?」の言葉を聞いてからじゃないと買えなかった。自分がいいなと思っても、「余計太って見える」「丸顔のあんたには似合わない」などと言われては、買うのをあきらめた。
気づけば、何をするにも一人で決断することができなくなっていたのだ。
そんな生き方に息苦しさを感じ始めたのは、いつ頃だっただろうか。
働きながらお金を貯めて、遠く離れた場所で一人暮らしを始めた。引越し準備を進める私を見て母は不機嫌になったが、見ないようにした。一人暮らしを始めたときの開放感は忘れられない。
だがその数ヶ月後、母は私のマンションから徒歩圏内の場所に引っ越してきた。逃げられないと思った。
子どものころへ置き去りにされた思いを、20年越しに叶えるために
母との歪な共依存関係をやっとの思いで切ることができたのは、夫と結婚したタイミングだ。
私が働き出してから、母は私にお金をせびるようになっていた。このまま母との共依存関係が続けば夫に迷惑がかかる。それだけは避けたかったのだ。
思い返すと、私はずっと精神的に孤立していた。他人にも自分にも興味が持てず、誰と話していても会話が続かなかった。人と会話するとドッと疲れてしまうため、休日の大半を布団の中で過ごすことも珍しくなかった。たまに友人と遊んでもうまく笑えない、提供できる話題もない。旅行や趣味、仕事などに精を出す友人の中で、自分だけが浮いているように感じた。
私はどんなときに心が動くのだろうか。まず、自分を知る必要があった。
カメラを買って、紅葉や冬の海を撮りに行った。レザークラフトを習ったり、ビーズでアクセサリーをつくったりした。遠い場所に住む友人を訪ねて、新幹線に乗った。知名度や給料だけで選んだ会社をやめて、文章を書くようになった。取材を重ねて、いろんな価値観に触れた。
何年もかけて、自分の好きなこと、興味のあるもの、気になる人に手を伸ばすうちに、狭かった自分の世界が徐々に広がっていくのがわかった。同時に、これまで何にも興味を持たず、死んだように生きていたんだなあと後悔もしたけれど。
母と絶縁して5年が経った。何かを始めるときに母の批判する声が聞こえることは、もうない。
先日、二十数年ぶりにサッカーボールを触った。いきなりスクールに通うのはなんだか気が引けて、サッカーボールを抱えて近所のグラウンドに足を運んだのだった。
夫を相手に適当に蹴り合ったあと、子どものころ得意だったリフティングに挑戦するも10回がせいぜい。ボールがあさっての方向へ飛んでいく。膝の裏の、なんだかよくわからないスジが痛い。
ひんやりとした空気の中、何十分走りまわっただろうか。息を吸うたびに胸が痛くなる、あの感覚を久々に感じた。
時間とお金の許す限り、自分が選んだいろんな景色を見てみたいと思う。そうやって少しずつ、自分を取り戻していきたい。
編集:遠藤光太
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