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現代俳句と時空の座

執筆:ラボラトリオ研究員 七沢 嶺


俳句というと「古い」印象があるだろうか。古語と現代語の混ざりあった表現であることや、俳句という長い歴史の重みにより、そのような印象があっても不思議はない。

この令和においても、日々、俳句は生まれている。それらは、我々の五感を通して直接的にみている「今」を詠んだものである。そのように考えると、一概に古い文学と片付けることはできず、新鮮なものに思えてくる。

物理学の視座に立てば、時空(三次元空間と時間軸の統合された概念)とは一斤の食パンのようであり、「今」と「昔」の「切断面」は決して独立しているものではない。極端に斜めに切れば、今と昔は同一平面上に存在する。机上の論を現代人の時間感覚にあてはめるのは甚だ強引なことであるが、令和時代を生きる我々は、芭蕉や蕪村と「座」を共にする仲間といっても誤りではないだろう。

「個」の時代という言葉を聞くことがあるが、俳句を通して「座」「共同体」「公」に触れることができるのではないかと考えている。古今の句を鑑賞すればするほど、たとえ数百年の隔たりがあったとしても、人の心は変わっていないと強く感じる。故人たちの気息が真に迫ってくるのである。五七五のわずか十七音を文学に昇華させる詩情は、一部に「個の自覚」により生まれ、「公」が基礎となり、人類の共有財産である俳句が創られるのである。

過去の記事において、かつての時代の句を紹介してきたが、今回は角川文化振興財団発行の『令和二年・俳句三月号』より、現役の俳人の特別作品数句を紹介したい。俳句雑誌も近代的なひとつの座のあり方であろう。大意・解説は私個人の感想であり、いわゆる独断と偏見がみられるかもしれないが、そのことでかえって新しい視点をもたらすという僥倖もある得るのではないかと思い執筆した。皆様のご参考になれば幸いである。

 臘梅や日輪雲に籠りたる  井上康明『山の風』

大意:臘梅(ろうばい)の淡い黄色の花が咲いている。その背景の大空には、太陽が雲に籠り、淡い光が満ちている。
解説:氏は山梨県の俳人である。『山の風』と題する作品集の一句であるため、おそらく山梨の山々を詠まれたのではないかと考えられる。勿論、そのような詮索は野暮なことである。句から立ち上がる景は、まるで淡い筆触の水彩画のような上品さがある。臘梅の黄、空の水青、光の白が「籠りたる」の一語でいっそう淡くなり、晩冬から初春の喜びを意識させるようである。但し、i 音の調子により、晩冬の憂い、寒さが一句に底流しているように感じる。

 遠山の雪に日当る枇杷の花  

大意:遠い山々の残雪に日が当たっている。わが家の庭にある枇杷は花を咲かせている。
解説:虚子の「遠山に日の当たりたる枯野かな」があまりに有名であるため思い出してしまうが、類想・類句ではない。私は山梨から出たことがないため、この景はよくわかるのである。
盆地にある家の庭には枇杷が咲いている。そこからみえる遠い山並みに、雪が日をうけ白々と輝いているのである。枇杷の花は、黄と橙の中間の落ち着いた色をしている。私の乏しい語彙力では伝わらないかもしれないが、古式ゆかしい色なのである。芳しい香りを感じながら、遠山を眺めるのである。残雪という僅かな寂寥感を湛えて。

 青空へゆく冬蜂の後ろ脚  山西雅子『芹の沢』

大意:青空へ飛んでゆく冬蜂の後ろ脚よ。
解説:「後ろ脚」が本句の要諦である。この一語に何を感じるだろうか。ちなみに、脚と足は異なる。脚とは股関節から足先までの全体をいうそうだ。長い後ろ脚をぶら下げて飛んでいる姿がみえる。複数匹ではなく、一匹だろう。冬蜂であるから夏季の蜂よりも元気はなく、その脚は、よりいっそう「重たそう」である。
「青空へ」飛んでゆくのであるが、その希望溢れる世界と反するように、陰を背負っているようにさえ感じる。もしくは、冬の苦労を乗り越えた蜂が、生命溢れる季節へ飛んでゆく、明るい物語でもあるだろう。
「芹の沢」と題される作品集の一句であるから、芹の新芽が萌え立ち、綺麗な水の流れや音も感じられるようである。孤高の蜂に「危険性」はなく、美しい自然と筆者は静かに調和している。

 土筆生ふ為すべきことの湧くごとく  田中春生『独酌』

大意:土筆(つくし)が生えている。為すべきことが湧いてくるように大小様々に。
解説:土筆が眼前で急に伸びることはないため「静」の景であるのだが、中句下句の措辞により「動」の躍動感が溢れている。土筆は確かにそのように生えていると思わせる良句である。逆に、誰でも気づいて言語化できるようなことであった場合は、陳腐なのである。本句の場合は、気付きそうで気付かない点を平明に表現している。
大意において、「大小」様々と私個人の感想を加えた理由は、「為すべきこと」は重要度や優先順位があり均一ではない複雑さがあるだろうと感じたからである。土筆の可愛らしく、かつ不思議な立ち姿に心が癒やされつつも、やらねばならない仕事や雑事を思い出し、わずかに苦悩する筆者の姿がみえてくる。社会人のみならず、子どもにも共感できる句であるかもしれない。大人が思うほど子どもは暇ではなく、宿題、試験、友人関係と悩みは多いのである。
一方、「成すべきこと」と、使命の遂行という意味で捉えた場合は、遥かに情熱的な句になるだろう。

 大らかに枯れゆく蓮立つてをり  井越芳子『壁画の雲』

大意:枯れかけている蓮が、その体をおおらかに傾けながら立っていることであるよ。
解説:我々の所属するラボラトリオ(和名:文章工房)には、ふとまにの里と名付けられた庭園があり、その池には大賀ハスという古代の蓮が生えている。今年の冬、まさにおおらかに枯れてゆく蓮を見た。であるから、私は本句に出会ったとき特別な感動があった。やはり文学には普遍性があると思える。筆者とは時間も空間も共有していないにも関わらず、間違いなく「同じ」景をみたのである。
蓮は枯れてもなお、開花期に湛えていたおおらかさを失っておらず、結句の「立つてをり」に威厳を感じる。傾く姿を、おおらかとみるか、死にかけているとみるかは筆者の感性である。本句には、現代人が忘れかけている精神を思い出させてくれる凛とした力があるだろう。


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。


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