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歌人・佐藤佐太郎氏の短歌にみる日本の美

執筆:ラボラトリオ研究員 七沢 嶺


佐藤佐太郎氏は子規以来の万葉調の歌人といわれている。
客観写生を尊び、俳句の伝統的な考え方と響き合うものがある。

俳句の学習から文学の世界へ入った私にとって、大変勉強になる歌であり、好んで拝読している。しかし、歌集には訳や解説はなく、初学者にとって大きな壁であると感じている。

私自身、古語辞典を開きながら鑑賞したが、それができたのも和歌が好きという情熱があったからである。すべての人がそうであるとは限らず、その壁の高さから和歌への興味の喪失・学習の断念をしてしまうことを考えると誠に残念でならない。

そこで、私なりに、歌の大意と解説を加え、少しでもその壁の高さを取りはらいたいと考えている。ただし、初学者である私の訳・解説に誤りがあるかもしれないため、参考程度にお読みくだされば幸いである。

鑑賞する歌はすべて、岩波文庫の佐藤佐太郎歌集「冬木」の項より引用した。

  よもすがらひすがら海は音たえて白く凍りぬ知床の海

大意:夜も昼も海はずっと静寂につつまれている。白く凍りついている。それは知床の海である。

散文的に意訳すれば、語順や表現がよりわかりやすくなるかもしれないが、和歌とは上から(つまり最初の五音、初句という)下へ読み理解することが正しい、と私は考えている。

最後の五音(結句という)に、驚きや詠嘆等の洞察が促されるのであって、散文的なわかりやすさとは次元の異なる文学ではないかと思う。

話は戻り、佐太郎氏のこの歌からは、知床の海の空気をも凍るような冷たさを感じ取ることができる。音たえて、という表現に氷の厚さや冷たく静寂な空気感が伝わってくる。

氷塊のせめぐ隆起は限りなしそこはかとなき青のたつまで

大意:海の氷塊がせめぎ合って出来た隆起は限りがない。どこということもない青が立つまでは。

そこはかとなき青、とは何であろうか。海の青であろうか。そう考えると、海の青色がみえるのはかなり先のことであって、この長大な時間感覚が、氷塊の大きさや厚さを不動なものにしていると思える。

残雪の照る山峡(やまかい)をのぼりゆく滝の音すぎてまた滝の音

大意:残雪の照らされる谷あいを登ってゆくと、滝の音が聞こえてくる。そこを過ぎてもまた新たな滝の音が聞こえてくる。

残雪であるから季節は春である。その雪に日があたり、渓中が白く輝いているようである。
のぼりゆく、の「ゆく」は終止形であると思うが、連体形と考えても面白い。
水は天から地へ、音は地から天へ昇るのである。春の季語である「龍天に登る」を思わずにいられない。清らかな渓の景色に、自然の勢いを感じる。

ここまでわずか三首の紹介であるが、長文になってしまったと思う。
私の気持ちは、何千首もご紹介したいが、優しさとお節介の境界線を超えてしまいそうであるため、今回はここで終わりにしたい。


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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