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セルチュクのモスクで井筒俊彦のイスラーム哲学を学ぶ

トルコ (13日目)西部の地方の町セルチュク(Selçuk/イズミルİzmir)に来て3日目。
本命ギリシアのビザ調整のためだけのトルコではなく、トルコの必然性を、相変わらずトルコのモスクで井筒俊彦のイスラムから学んでいる。

これは、単純にシェンゲンビザ調整のためのトルコ滞在なんてレベルではなく、わたしのテーマであるソクラテス以前・初期ギリシア哲学の「存在」の『根拠』の視点からも、とてつもないくらい巨大なことであることを井筒俊彦から学んでいる。

ここセルチュクでも、古典的な安ホテルの直ぐ近くのモスクTahsin Aga Camiから早朝から晩まで大音量で数回アザーンが流れて来る。しかも部屋の直ぐ前からである。それでも、初日のセルチュクでは、早朝5時15分のアザーンに起こされることはなかった。それ程、イスタンブールからセルチュクへのタクシーと長距離バスと徒歩(少し)での移動は、わたしの限界を超えた荷物(本が主体)のおかげで心身共に体力を消耗させた。

モスクTahsin Aga Camiは、セルチュク町の中心にあり、老人たちがモスクの周辺に座ってひなが雑談したり、モスクに必ずといってほどある足洗い場で足を洗っている。
モスクの中には、ひとりの老人が座っていた。ステンドグラスにはアラビア語が刻まれている。静かで、イスラーム100%の空間に、わたしも座って瞑想した。
アラビア語もトルコ語も全く解さないわたしは、井筒俊彦を頼りにせざるを得ない。

「存在一性論者の問題とする存在とは、われわれ自身とか、われわれが自分のまわりに感覚的に見出す個々の事物、つまり具体的な存在者ではなくて、それらすべての存在者を存在者たらしめている存在そのものである・・」井筒俊彦「イスラーム哲学の原像」p140

これって・・・ソクラテス以前・初期ギリシア哲学の、パルメニデスが挌闘した「存在」の『根拠』・・の問題じゃない?
モスク近くのカフェStairs Coffeeの美味しいラテ一杯でかなりの時間居座って、井筒俊彦を隅から隅まで読み返した。天才井筒俊彦は、ぼんくら頭のわたしにも分かるように、この問題に対するイスラームの解(立場)たちを要約・説明してくれていた!

自己を知ることの重要性を説いた道元を待たずとも、井筒俊彦を読んでいたら、自分の「今」の位置が少し分かりかけてきたような気がした。大多数のひとは、自分を知らずに生き、そして、死んで往く。自分自身と出会うことが如何に希か!

事実上のホームレスになるまでミニマリストになってやってきたアジアの西の果て、ヨーロッパとアジアの境界に居る「自分」の判断の『必然性』に気付かせてくれた。井筒俊彦とイスラームのモスクは。ほんとうの自分のいちばんのテーマは、まさに此処にある!イスラームが挌闘し、初期ギリシアが挌闘し、井上忠が挌闘した、この「問題」こそが自分自身の問いそのものであることに。

ずいぶん長い回り道だった。しかし、これからも道は長い。本命の初期ギリシアの目的を明確に意識しつつ、ヨーロッパとアジアの境界を右往左往したい。
(写真は、セルチュクSelçukのモスクTahsin Aga Cami)
24.Apr.24

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