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ゆらぎ 10 -あまりにもあいまいな(続編) 「勝利の美酒」の反動!

地裁勝利判決の日、裁判所で記者会見を開いた。その夜7時のNHKニュースで報道された。その後も、なんどかテレビニュースで報道された。
それを見た後の巧の父親の反応が面白かった。「ははは(^O^) たった、こんな短い!なぁ~んだ!」・・・このひとは、ほんとうにバカだと再確信した。「向坂学校(三井三池争議時の社会主義者の学校)の優等生」(父親発言)が笑わせるよ!母親は、完全に無反応だった。
巧の両親は、巧をまったく理解できない以前に、理解したくなかった。特に、父親は自分の負い目の裏返しだった。父親の、巧に対する態度も変わった。自分にはできないことをやってのけた息子に恐怖心・畏怖心を感じると共に、ムラムラとした敵愾心が湧いていた。本当に、人間とは、奥深いものだ。

この時のニュースを見たひとりの独文科の女子学生が、彼女の母親と「こんな凄い人がいるんだね。」と話し合ったとのこと。その後、彼女は巧の会社に入社してきた。そのことを巧は、その本人から直接聞いた。彼女と巧は、ずっと親しかった。彼女は、巧の農場にも何度もやってきた。二人で、杉の大木をチェンソーで倒したこともあった。畑仕事も一緒にした。彼女も自然志向だった。
職場では、むしろ、新入社員たちの方が巧と親しくなった。管理職が新入社員に「あのひと(巧)は、とても悪いひとだから、決して話しないように。」と露骨に言った。それにもかかわらず、そのことを直接、その新入社員から聞いた程だった。会社と巧の力関係は、更に逆転していったのだった。

巧と巧の両親とは、二世帯同居だった。巧には、長男、長女の二人のこどもがいた。共働きだったので、ほとんど巧の両親、と言うか、巧の母親がこどもの世話をしていた。長男と長女の間には、10歳の差があるので、とくに、長男は巧の母親べったりだった。
長女の時には、立ち会い出産・男の育児休暇の先駆者だった(アメリカの新聞の一面に記事が掲載されたこともあった)ので、昼間乳母車を押して近くの公園に行ったり、長女の離乳食を作って食べさせたりした。一緒に昼寝しつつ、巧の方が先に寝てしまうこともしばしばであった。長女の布お襁褓を100%すべて巧が手洗いする程だった。育児休暇以外の時も、深夜遅く帰宅した際、バケツには、たくさんの汚れたお襁褓が置いてあった。それを毎日、巧が手洗いした。巧の妻の指示だったので、巧の母親もそのままにしていた。

巧と父親とは、深い反目があった。父親は、巧への敵愾心と言っていい程の反感があった。父親は、露骨に長男に、父親巧に対してのネガティブな発言をし続けた。
実際には、巧は、普通の父親以上にこどもと関わっていた。ハイキングにも、ひんぱんに連れて行っていた。労組の用事で出掛ける時にも、時には、長男を連れて行くこともしばしばであった。
巧の、こどもに対する教育方針というものもあった。こどもが、ごく普通に社会生活を送れるようにしたい、トラブルなく対人関係を築いてほしいと思うのは父親として最低限のことだろう。時間を守る・約束を守る・他者の話を聞く・周囲の人に気を遣う・・といった基本的なことである。ずっと後になって分かったことであるが、長男はADHDだった。当時、そんなことばすらなかった。ただ、仲間に「あの子は、離人症っぽいとこがあるね。」と言われたことがある。ひとによっては、長男を「ありゃ、だめだ!」と全否定するひともいた。さすがに、父親として反感を持ったが、だからこそ、巧は長男に対して父親として最低限のことは教えなくては、と思った。
しかし、巧の父親は、それを必要以上に否定して、巧の長男である孫に対して、孫の側を援護するように、つまり、父親である巧を否定するように関わった。巧の長男は、こどもながらに、巧と祖父との間に立って両者の矛盾の板挟みになり、苦しんだ筈である。深層心理で深い傷を負った。それには、巧の責任も大きい。
巧の、父親に対する反感は、幼児体験に根ざす深層心理から来る奥深いものだった。このことの、善悪の是非は、巧にもいまだに分からない。父母に対する愛情を説く宗教はほとんどだろう。すべてと言っていいのだろう。いまだ、それを説かない宗教を知らないほど。そうすると、巧は、このままだと、確実に地獄に落ちるということなのだろう。ただ、そうだとしたら、地獄でも閻魔大王に反論したい。人間として許しがたいという感情を父親・母親に持つことは、人間には決して許されない事なのかと。そうだと言うのなら、喜んで地獄に落ちよう。巧の父親・母親が犯した罪は、三池争議の結論である、死者458人、CO(一酸化炭素)中毒者839人を出した炭塵爆発事故の責任の一端でもある。その中に含まれている被差別者与論島出身者、強制連行されてきた朝鮮人労働者に対する責任の一端でもある。それまでにも、三池炭坑で人間扱いされてこなかった、それら被差別者、朝鮮人に対する責任の一端でもある。彼ら彼女らの命は、そんなに軽いものであっていいのだろうか。今、私たちは、簡単に忘れてしまっていいのだろうか。日本人は、大日本帝国の末裔は、あまりにも無責任であろう。巧も、その一員である。巧にも責任はとりきれない。人間という存在そのものが罪なのかとすら思う。
それらの罪の欠片でも、巧の父親に感じて欲しかった。三池争議の(敗北)決戦直前の敵前逃亡は、人間として許されない罪だと巧は今でも思う。巧の丸の内の職場で味わった針の筵の地獄は、巧にとって贖罪のひとつだった。しかし、ほんの小さな、小さな贖罪だった。

確かに、巧には、地裁完全勝利判決後、自分自身に対する「自信」と「プライド」は高まった。
こどもの頃、福岡から東京杉並の小学校に転校して、先生に侮辱的なことばを投げつけられても何も反論すらできず、俯いていた弱虫の巧が、職場で、たったひとりで針の筵に耐えて勝ち取った勝利なのだから、やっと、巧は自分自身に自信とプライドを持てたのだから、ある意味、当然のことだろう。
ドイツ人経営者からの直接的な信頼も実感していた。

ただ、それらを、家庭ではすべて否定された。
巧の父親は、おとなげなく、巧を否定し、それに反して孫を持ち上げた。「5歳にして、父親を超えたな。」と露骨に巧の前で孫に言う父に対して、相手にするまでもないと無視したが、きちんと向き合うべきだったのだろう・・か? 巧の妻、つまり、その孫の母親も、長男の方を持ち、ヒステリックに巧の父親としての教育を否定するようになった。ここに書くまでもないような小さなことで(巧の母親が「知らない」と言っていることに執拗に同じ質問を巧の母親、長男の祖母に投げ続ける長男に巧は、静かに「知らないって言ってるでしょ」と言ったことに対して、巧の妻は、巧に対してヒステリックに抗議し続けた)、昼食時から深夜夜中まで言い争いになり、最後には、時計をちらっと見た巧に対して、巧の妻はヒステリックに切れ、巧の鞄を何度も床に投げつけるまでに至った。巧は、翌日団体交渉があるから寝かせてくれ、とお願いしているにもかかわらず。

巧は、会社から帰宅して、家に入る前に、労働運動でやるように、拳を振り上げて自分の気を引き締めなければならない状況にまでなってしまった。皮肉なことに、針の筵が、会社から家庭に移ってしまった。

その根本原因は、三井三池争議に対する両親と巧の立場の違いである。両親は、巧のためでもあったのだろうが、第一組合から第二組合に転向し、更に、敵前逃亡するようにして東京本社に転勤することを選択した。そこに不純な「取引き」「契約」があったことは容易に想像できる。
それに反して、巧の幼児時代は、第一組合、三池労組のコミューンである炭住での労働運動の真っ只中である。赤旗の波、シュプレヒコール、労働歌、インターナショナル、デモ、抗議集会が巧の原風景であり、こもり歌だったのだから。両親とは正反対の価値観を持ってしまった、持たされてしまったこどもだったのである。そんな家族にトラブルが起きない方がおかしいのだろう。

ずっと、時間が経って、巧は思う。これは、巧にとって必然、運命だったのだろうと。この巧の「物語」のロジックは、恰も、事前に決められていたかのように、うまくピースが嵌まり合う。そこに、なにか、スピリチュアルなものを感じるのはおかしいことだろうか。
(写真は成東白幡神社大麻神事・・鎮魂の意を込めて)


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